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2008年08月27日

ウィルコムユーザーからWILLCOM03に一言

ウィルコムを使っているというと、スマートフォンユーザーと勘違いされることがある。
それほど、ウィルコムがシャープと造りだしたW-ZERO3シリーズは認知が高い。

わたしがウィルコムなのは単純。
  • メールが主で、通話はほとんどゼロ→メール料金が無料なウィルコム
  • ただし通話するときはきれいな音声で話したい→通話音質のよいウィルコム
というだけ。

もちろんW-ZERO3シリーズにはそそられた。
でも、端末が大きくてシャツのポケットに入らないし、高い。

と思っていたら、WILLCOM03はちがう。
須永氏が求めたサイズとは、幅50ミリ以下、高さはワイシャツのポケットにすっぽり入るというもの。
(以下のニュースから引用)

2008年08月26日

[メモ] 「素直」ということ


先日、都内の歩行者用信号のボタンを押そうとしていたとき、見知らぬ女性から「グッと押してね」と言われた。ボタンを押した歩行者用信号機は至って正常だ。ただ、ボタンを押しても中々青にならないからか、女性は強く押せばすぐ青になると勘違いしているのだろう。


強く押しても変わらない。しかし、僕自身も自動販売機のボタンを何度も押してみたり、社内のエレベーターの閉めるボタンを何度も押したりしていることを思い出した。そこで、青になるまで、信号機を使う人の気持ちを考えてみた。大半の人は早く交差点を渡りたい気持ちでボタンを押しているに違いない。それなのに信号機のボタンは「お待ち下さい」と表示されるも、スイッチが入ったかどうかもわからない。


「カチッ」といった音も鳴るわけではない。日中だと陽に当たり、小さくて暗いため結果的にイライラしてついついスイッチを何回も押したり強く押したりしてしまうのだろう。けど、これは実に素直な行動だ。イライラを解消するためにはどうすればいいのだろうか。押すと「カチッ」とでもいいから、電子音が鳴るとか、青になるまでどれくらいなのか知らせるレスポンスとなるインタラクションをデザインする必要がある。例えば、「後○秒お待ち下さい」という大きな表示でもあればイライラが解消され、信号機周辺の捨てタバコの数も減らせるのではないだろうか。


自分がそうでなくとも、せっかちな人、小さな子供、怪我をしている人、外国人がいるように、使い手は様々であることを忘れてはいけない。歩行者用信号機に限らず、エレベーターのボタンや電話のプッシュダイヤル、テレビのリモコンなど、身の回りにあるものがその人たちの気持ちになってどうなのかを考えてみると、色々なことが見えてくる。そしてこれは、サービスを提供する上でも重要なヒントとなってくる。


関連エントリー:

2008年08月26日

マイクロソフト主催「MIX essentials. Silverlight Day」



今年3月にアメリカで開催されたMicrosoft「MIX08」のサブイベントとして、日本のWebデザイナー・クリエイター・Web開発者向けのイベント「MIX essentials. Silverlight Day」が10月10日に行われます。

タイトルが「Silverlight Day」というだけあって「Silverlight 2」を軸にしたセッションが行われる様子。Silverlighを使ったメディア配信、Silverlighで実現するRIA、Silverlighを使ったキャンペーンサイトなど・・・(仮と書いてありますが)Web制作者としては気になるテーマです。特に、結局Flashと何が違うの?という部分が。

先日「GyaO」の一部機能として採用されたりして頑張ってるSilverlighではありますが、まだまだ先は長いように感じます。

MIX essentials. “Silverlight Day”

The Next Web Now: 次世代 Web の世界を拓く最新のテクノロジやサービス、そしてユーザー エクスペリエンスをご紹介します。

2008年10月10日 13:00〜 18:00
開催場所:六本木アカデミーヒルズ 40 キャラント A [地図]
参加対象: Webデザイナー・クリエイター・Web開発
関連製品:Silverlight 2、Expression Studio、Visual Studio 2008、Windows Server 2008 (IIS7、WMS)
参加費:無償(事前登録制)

ちなみにサイトはSilverlight 2をダウンロードしないと見れません。

MIX essentials. Silverlight Day
http://www.microsoft.com/japan/msdn/nextweb/remix/

関連記事:
「GyaO」のトップページがSilverlightになっとる

2008年08月26日

胸踊り空飛ぶ気分を創造する研究所「REC LAB」はじめます



さんのお誘いで「REC LAB」というラボに参加することになりました。
ということで、ここでメンバー募集の告知をしようと思ったのですが、Qさんのツテだけですでにメンバーがいっぱい集まってしまったので、とりあえず最初のプロジェクトが始動するまではこのままいく様子。

9月1日にメンバーの顔合わせがあるんですが、たのしみで仕方がありません。お会いしたことない方ばかりなのですが、かなり濃いメンバーが集まっています。

Qさんとは、Web上では6年くらいの付き合いなんですが、実際にお会いしたのはつい最近なんですよね。わたしがCHUNKGRAPHというホームページを運営していた頃、クリエイターつながりでお互いの掲示板にコメント書き合う程度の付き合いだったんですが、数ヶ月前に飲みに行って依頼、意気投合しすぎてやばいです。たのしいです。

ちなみにこのラボに参加する交換条件としてQさんもわくラボを手伝ってくれるという話もあるので期待してます。ふふふ。そろそろわくラボの某企画も詰めないといけないですね。わくラボでは「猫」を募集中です。

REC LAB
http://rec-lab.com/

2008年08月26日

ブラックサイト「サイバー捜査官ジェニファーの顔プロファイリング」が心臓に悪すぎる



映画「ブラックサイト」のDVD発売記念スペシャルコンテンツ。
さっきタナカミノルさんのところで知って早速やってみたんですが・・・これは心臓に悪いですよ!かなりドキドキしました。

写真をアップすると「ネット犯罪に巻き込まれる危険度」を診断してくれるということで、単なる顔診断ジェネレーターだと思ったら大間違いでした。
いやー、でもおもしろい。公開されたのはけっこう前らしいので、知ってる人も多いと思いますが・・・、やったことない方は是非。

ちなみに診断結果はこんな感じでした。

ネット犯罪に巻き込まれる危険 =====> 78%
出没サイト =====> アイドルブログ
欲望優先性 =====> 65点
ネットストーカー =====> 前科多数
騙されやすさ =====> 53%
ネット依存度 =====> 50%

サイバー捜査官ジェニファーからのコメント
目の前の欲望に弱く、少なからずネット依存症の疑いがあるhinikuさん。今後、「お宝」「無料」を謳った犯罪サイトに痛い目に遭わない様注意してください。安全で快適なネットライフを…

しかしこれはつくるの大変そうだなあ・・・

ブラックサイト|サイバー捜査官ジェニファーの顔プロファイリング
http://blacksite.jp/

via:Pickles weblog

2008年08月25日

去勢された美的技術としてのファイン・アート

よく知られているように。そう。よく知られているのです。

よく知られているように、いわば実利的な技術と区別して美的技術fine artという概念が出現したのは18世紀のことだ。しかし実利的技術としてのapplied artがより明確な領域として示されるようになったのは、19世紀の前半、産業革命を背景にしていた。

こういう「よく知られたこと」も知らずに、アートとデザインの区別をどっちが上だとか下だとか言う無知はいったいなんなんでしょう。ものを知らなすぎです。
去勢うんぬんをいうのであれば、まさに18世紀に実利的な技術と区別された時点でアートは去勢されているわけです。その純粋さ(fineさ)こそ去勢の結果だということを知らないというのはどうなんでしょうか?

去勢された美術

当初、産業革命が起こった頃、産業による製品は著しく美的な質に劣っていた。伝統的な製品のデザインを近代以前として捨て去ってはみたものの、工業的につくられる製品は見るにもおぞましいものだった。そこに実利的技術としての応用美術による「装飾」が試みられた。それが次第に19世紀末から20世紀にかけて、今日考えられるデザインという領域を形成していく。アーツ・アンド・クラフトやアール・ヌーヴォー、さらにはバウハウスなどの運動を経て。

では、その頃、一方のファイン・アートとしての美術が安泰だったかというとそうではない。
実利技術なんて概念が生まれたのも、そもそも、宗教や王侯貴族、時代が下れば大商人の発注によって制作されてきた絵画や彫刻は、社会の平等化が叫ばれるにつれ、クライアントを失うと同時に、単なる画工が芸術家と呼ばれるように独立性をもったにすぎない。しかも、それも当初は単に美的技術をもつ職人だったわけで、まったくいまのデザイナーとなんら変わりはない。

それがようやく今のようにfineな「芸術」として扱われるようになったのは、むしろ、一方のデザインが社会的に認識されてきたからにすぎないのです。

しかし、実利的技術=応用美術としてのデザインという概念が定着することによって、fine artとしての美術は、その関係性によって位置づけがより明確に認識されることになったのは間違いない。

別にそれはファイン・アートがえらくなったわけでもなんでもなく、単に社会的変化に応じて分類されたにすぎません。社会的文脈の変化からそれまでの宗教や政治的な文脈への依存がむずかしくなったがゆえに、実利的な意味を失ったがゆえに、ファイン・アートは他の実利的な意味をもった分野から切り離されたと見た方がいいんです。ようは役に立つ機能がなくなったから「純粋」というしかなくなったんですね。それこそ、去勢されているがゆえに純粋になったのだ、と。

そもそもが西洋であれば、建築を頂点として、詩も絵画も音楽もおなじく芸術表現と考えられていたわけで、すべての表現メディアは同じ記憶の女神「ムネモシュネ」が孕んだ9人のミューズだと捉えられてきたのです。その一人ひとりが音楽や詩などを司ると考えられ、それゆえに「姉妹芸術(sister arts)」という呼び方もあったりするくらい。そっちの流れが本来にあって、その他、伝統的なルールやしきたりを捨象して人工的な分類や決まり事を生み出した近代のカテゴリー同様に、それはあまりに近代的な枠組みでしかないわけです。(このあたりの事情は高山宏『表象の芸術工学』に詳しい)

日本と西洋の同期

何もこれは西洋においてだけでなく、日本においても同様です。

中世までの美術作品はほとんど仏教美術か、逆に日本の土着の神々と遊ぶための連と通じたものです。連歌にしても、能にしてもそうです。
その後、室町の時代になってからは禅宗文化から山水画や茶の湯、立て花が生まれ、それが安土桃山時代になって法華宗から、長谷川等伯などの画工や、本阿弥光悦のような多彩な才能をもった人を排出するようになる(このあたりの事情は松岡正剛『山水思想―「負」の想像力』に詳しい)。等伯の絵にしても、狩野派の絵にしても、襖絵であり屏風であり、決して純粋な美術ではないし、光悦の焼物や工芸品、書など、どれをとっても実利性につながる技術と美的技術が分けて考えられたことなどありません。
江戸期に入って、町民が文化を形づくる時代になっても、そこは何も変わらない。黄表紙などの滑稽本、浮世絵、歌舞伎など、どれも純粋な美などは眼中にありません。

日本においても純粋な美術などというものが創造されたのも、明治期になって本格的に西洋の絵画が入ってきた際に、そうした絵に対してフェノロサと岡倉天心が「日本画」なるものを創造したときです。ちょうど今、東京藝術大学の美術館でフェノロサと天心が創出した日本画の第一号ともいえる狩野芳崖の「悲母観音」が展示されているようなので、日本画という人工物の創出に興味がある人は見に行った方がいいでしょう。
これまで漢画に対する大和絵という区別はあっても、日本画などというものはそれまでなかった。西洋においてfine artの位置づけが認識されるのと、日本画が誕生するのはほぼ同時です。

西洋においては昔も今も美術作品は商品

純粋な芸術なんて枠組みはたかだか近代以降の産物でしかないことが、現代の日本においてはよくわからない。だから、現代芸術の作品がオークションでとてつもない高値で取引されることも、アートフェアが商売のための見本市であることも、芸術作品を買うのも株などへの投資とおなじだし、ましてや美術館に寄付することで相続税が免除される資産であることも含めて、それがほかのものと同じように商品性をもったものであることが、いまいち感覚としてよくわからないのでしょう。

それは日本におけるアニメやマンガ、フィギュアと変わらないんです。滑稽本の国だから、日本では芸術作品がそういう形態をとっているだけです。こういう文脈を理解すれば、村上隆さんの作品がなぜああいうもので、かつ、それが海外のオークションで高値で売れるのかもそれほど不思議ではなくなるわけです。日本ではアートというものがへんに純粋なものだとか、崇高なものだとか勘違いされすぎてるわけです。それは高級時計などのもっと高級版の商品とみればいいだけです。

本来は単にその機能が特定の個人の欲望をどれだけ刺激するかということに特化しているだけ。それほどユーザー中心設計されたものはないくらいです。

そうした歴史や文化の流れも見ずに、芸術の純粋性だとかを言ってもばかばかしいし、日本でしか通じない発想なんじゃないかと思います。ほんと、このあたりの無知はいまの美的創造性を著しくせまい範囲にとどめてしまっているのかなと感じるのです。

  

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2008年08月25日

[プログラミング] Firefox + Firebug


f:id:bokuno-nou:20080824003238j:image:left"Firebug(ファイヤーバグ)"というHTML、CSS、 Javascriptのための開発ツールを提供するFirefoxのAdd-Onを導入してみた。Firebugを用いることで、HTMLと CSSの内容の表示はもちろんのこと、Javascriptのコードからソースの中身を調査タブで調べたい要素のソースが画面下部に表示され、編集タブを利用することでリアルタイムで編集作業が行える。操作方法は簡単で、ワンクリックで呼び出し、調査タブを選択した上でHTML上にマウスカーソルを移動させることで、選択された箇所のソースを閲覧することができる。


f:id:bokuno-nou:20080824003237p:image


HTML タブではFirebugの左側の窓でHTMLのソースを確認でき、右側の窓でCSSのスタイルを確認することができる。ソースを直接クリックすればリアルタイムで編集することができ、ブラウザ上で確認を行える。CSSタブではページに反映されているCSSをファイルごとに確認することができ、HTMLタブ同様に編集が可能だ。Javascriptのソースの確認と編集を行いたい場合は、scriptタブで実行することができ、操作方法はHTMLとCSSと同じように左側の窓で選択しつつ、右側の窓で変数の変更などを行うことができる。


タブの右端に位置するオプションをクリックすれば、Firebug上で表示するXML、CSS、Javascriptのエラーを表示することも可能だ。これまで紹介してきたFirebugの特徴を最大限に活かすことで競合他社のサイトやデザイン性の高いウェブの中身も分析できることはもちろん、ローカル上に保存したHTMLのソースを確認するという使用方法もある。これまではファイルの更新ごとにブラウザで確認していたのだが、Firebugを導入することでリアルタイムでの編集と確認が行えるので作業の効率化に繋げることができるのではないだろうか。


関連エントリー:

2008年08月25日

アート・芸術でいいんじゃないの。

最近(といっても、そんなに最近のことでもないのですが)、デザインとアート・芸術をあえて分ける必要なんてないんじゃないのと思うようになりました。

よくデザインは他人の必要を満たすためのもので、アート・芸術はどちらかといえば作家自身の思想や哲学を反映したものという区別をしたりしますが、本当にそんな区別なんて必要なんじゃないでしょうか、と思うのです。
デザインだって、もっと徹底的にものや世界に対する自分の美意識にこだわっていいと思うのです。いや、むしろ、こだわらないといけないのではないかと感じます。

作り手の思想や哲学を感じないデザイン

特に、作り手の思想や哲学を感じないデザインをみると、そう感じます。

確かにプロダクトのデザインであれば、製品として成立することが第一だと思います。でも、それって決してそこに作り手の思想や哲学が反映されていることと矛盾することではありません。
プロダクトのデザインにだって、作り手の意志や考えが判断されていいし、むしろ、それが見えないからいまの製品ってつまらないものになってるんじゃないかと思うんです。

ものづくりが市場に躍らされている感がある。いや、ものづくりの結果、生まれる製品のデザインだけじゃない。昨日の「創意工夫がヤならデザインするのなんかやめればいい」で書いたように、その作り方自体に関しても、流行に流されるかのように方法ばかり重視したデザインに陥ってしまっています。
ユーザビリティだの、ユーザーエクスペリエンスだの、中身のない言葉にすっかり踊らされて、わけもわからないまま、何かとデザインの方法を使おうという馬鹿げた社会の雰囲気に流されてしまっているような印象を受けるのです。

そこにはまったく哲学がありません。ヴィジョンがありません。

自分の問題意識をもつこと

とにかく元からある解答ばかりを頼りにして、自分の力で答えを見出すということができません。いや、そもそも自分自身の問題意識をもつことができていません。問題意識がなければ、問題の発見もできないし、自分自身の問題を解決することもできません。外から与えられた問題をただひたすら、これまた外から与えられた方法を使って解くだけです。

「わからない」を自分の身で引き受けること」ということをしないので、注目を集めている手法や製品にばかり目が行ってしまう。

いや、まじめな話。社会で話題になっている以外の方法なり、ものの見方の参考になる情報を見つけたり、見つけたものにちゃんと関心をもって、それが社会で話題になっていようといまいと自分の問題意識にあっているかどうかで判断して、きちんとそれを摂取していこうという努力さえできない人がやたらと多すぎです。
Amazonで10,000位以内にランキングされてるような本ばかり買ってないで、それこそ100,000位以下の本で自分の興味をひくものをどんどん発掘して読み漁ってほしい。いや、それこそ「信頼した人の推挙に従う」という手段を使ってでも。
自分の業務の狭い範囲に関連した情報収集や話題の情報だけを収集して、それでいったい何ができあがるの? どうやって自分の見る目を磨けるの? 考え方を改めていくことができるのか疑問です。

そんなの残念ながら、情報収集の時点ですでに終わってます。勝負が。

もちろん、別に全部自前で片づけろという話ではなくて、外の世界のいろんな手法なり考え方なりを学ぶのはいいのですが、いかんせん、流行りの手法ではなく、自分自身の問題意識によって必要な情報を収集し、自分自身の視点で集めた情報を整理するということができていないのではないでしょうか?
学生や若手の社会人がそれができないのは良いとして、問題はいい歳した大人のほうがそれができないということ。前に「危機感・問題意識創出のためのプラクティス その5つの軸」というエントリーを書きましたが、とにかく自分自身の問題意識を見つけて、それにこだわって行動するという強い姿勢をいまからでも訓練して磨いてほしいと感じます。

アートや芸術との境のない、きちんと自分の思想や哲学のつまったデザイン

そういう自分自身の問題意識、自分自身の視点による情報の整理・編集、そして、もちろん、自分自身の日々の制作活動や他者とのコミュニケーションがいっしょくたになって、そこにアートや芸術との境のない、きちんと自分の思想や哲学のつまったデザインができてくるのではないか。
そして、大事なことは、マーケットの流れのなかで予定調和的にしかでてこない今のありきたりで骨抜きにされたデザインよりも、そうした作り手のこだわりが宿ったデザインのほうが結局は、買い手・使い手に届くものになるのではないかと思うのです。

iPhoneだって、そうなんでしょ?
ジョブスのこだわりが見えるから、あんなに惹かれる人が多いんじゃないでしょうか。

椅子取りゲームじゃなくて

そういうものづくりをできなくさせている多くの企業って、ほんと社会をつまらなくさせてしまってますよね。売れるか売れないか、顧客が望んでいるかいないかなど、置いておいて、本当に考えて考え抜いたうえで社会に対してこれを使った新しい未来はいかが?と問えるようなデザインを目指そうという方向に行ってくれないかな、と思います。
いまの市場で売れるか売れないかじゃなくて、新しい思想・哲学を体現したデザインで、新しい市場そのものを創出し育てるという努力がもうすこしあっていいんじゃないか、と。

そう。それって努力の問題ですよね。

限られた数の椅子とりゲームばかりじゃなくって、自分たちで新たな席を見つけ出すという思想や哲学を育てるというアート・芸術的な方向への努力がどうしてこうも欠けちゃってるんでしょうね?

もう、あんまりまわりの目ばっかりに変に気にしないで、ちょっぴり変人なアートな人、芸術な人でもいいんじゃないの、と思います。いや、実際にはそれくらいのほうが本当はまともで信頼のおける人に見えるはずですから。

ほんと、社会の創造力がこの上なく、弱くなっちゃってませんか?

この状況を脱するためにも、まずはこの情報が混乱した状態をそれこそ各自が自分自身の編集力を駆使して整理しきってみることが必要ですよね。情報技術なんかより情報整理のよっぽどいまの時代大事なことだと思います。

そんなことを今日、グッドデザインエキスポに行って感じました。

   

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2008年08月24日

[ウェブ] You vs. Bolt - ボルト選手に挑め!


約2週間に渡って開催された北京五輪は本日で閉会となった。今年の五輪で世界中から最も注目されたのは陸上・男子100メートルなのではないだろうか。その火付け役となったのはご存知、ジャマイカのUsain Bolt(ウサイン・ボルト)選手だ。自分が2008年5月につくった世界記録を0.03秒縮め、初の9秒6台に入り、カール・ルイス以来となる100メートル・200メートルで世界新記録を樹立し、金メダルを獲得した選手だ。そんな彼と契約しているPUMAでは期間限定で以下のような特設ゲームがオープンしている。


f:id:bokuno-nou:20080823181608p:image


100メートルでボルト選手に挑むこのゲーム。カーソルの左右キーを連打することで、プレーヤーのキャラクターである巨大な手がキーを打つスピードによって走ってくれるのだ。100メートルを9.69秒で駆け抜ける世界一のボルトのスピードは、画面下のスピードメーターで確認することができる。


f:id:bokuno-nou:20080823181648p:image


ボルト選手に競り勝ち、世界新記録を樹立することができれば、ユーザー登録後にランキングされるので、自分だけの五輪としてボルト選手に挑んでみてはいかがだろうか。


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2008年08月24日

創意工夫がヤならデザインするのなんかやめればいい

昨日の「「わからない」を自分の身で引き受けること」の続きとして。

デザインにとって何より大事なのは、自ら創意工夫して、問題の解決なり、新たな形なりを見つけ出す努力を惜しまず励むことではないだろうか、と思っています。いや、むしろ、それが当たり前のことだと思っていたのですが、どうも世間の動向をみていると、そうは見えないところがあります。



悪しきマニエリスムの兆候

IDEOをはじめとするイノベーションの技法や、人間中心設計(ユーザー中心デザイン)への関心の高まりが、どうも悪い意味でのマニエリスムに流れ込んでしまっているような印象を受けるのです。
マニエラ、すなわち手法です。いまの世の中のデザインの手法への関心をみると、手法を知ること自体に重きがおかれ、肝心のデザインすること自体に向いていないように思えます。

確かに手法があると、デザインする行為における引き出しも増えます。まさに「「わからない」を自分の身で引き受けること」で書いたような見方・感じ方の軸を増やすことにもつながります。

しかし、最近の手法びいき=マニエリスムを見ていると、手法をつかってわからなさを発見し、より深く対象を知ろうという方向に走るというよりも、手法そのものをわかるようになりたいということが目的となってしまっています。ほとんどそれはフォトショップやイラストレーターを使えるようになるとかと変わりません。それがデザインそのものを知ることではないことは考えてみればわかりますよね。でも、そこに気づかない人が多いのかなって。

うまく使えない道具を無理して使う必要などどこにもない

道具や様式に走りすぎてしまうことは、どんな世の中でもあることで、ルネサンスがマニエリスムに陥ったのをはじめとして、日本でも利休の茶の湯が唐物崇拝から脱却せんとして世に送り出した今焼茶碗やわび茶自体がそのまま茶の様式・新たな道具崇拝に陥ってしまったなど、例はいくらでもあるでしょう(ちなみに歴史的には、ヨーロッパでも日本でも、マニエリスム的な手法への陶酔がしばらく続いたあと、手法を自在に、かつ、自由奔放に使いまわすバロックが生まれる。日本の茶の湯でいえば古田織部です)。

ただ、そうした例をみても明らかなとおり、様式や手法ばかりを意識して、本来問題となる対象物を見なくなってしまってはそこからは何も生まれません。

例えば、ペルソナでもそう。

単なるデザインにおいてターゲットユーザー像を明確にするための手法でしかないペルソナ法を用いるのに、ペルソナをつくるのはむずかしいとか、どうやってペルソナをつくればよいかわからない、ペルソナを作ったけどそのあとどうすればよいかわからないなどと、手法そのものに気を取られて、肝心のデザインするという行為が疎かになっていることがよくあります。それって本末転倒も甚だしいですよね。

本来、ペルソナを用いるのは、あくまでどうデザインするかを考えるとっかかりをつくるためであり、デザインを行う際に謎=わからさなとして立ちはだかるユーザーというものを理解するためです。あくまでデザインをすることが目的であり、ペルソナを作ることなんて目的ではない。それをどういうわけなのか、ペルソナを使うことによってデザインそのものから目が逸れてしまう人たちがいます。そんなことになるなら無理してペルソナなどは使わなくていい。別にペルソナなんてわかるためのものじゃなくて単に使えばいいものなんですから、「ペルソナがわからない」なんて言ってるのであれば無理することはありません。うまく使えない道具を使って、本来の作業が滞るなら使わないほうがいいに決まってます。

そんな風にペルソナに気を取られて本来のデザインを見失ってしまうような人は、鼻からデザインがわかっていないのですから。ペルソナがわかればデザインができると勘違いしてるんじゃないでしょうか? そんなわけないです。デザインをわかってる人が使うからペルソナは意味がある。その逆では絶対にありません。そう思ってる人はきっと、フォトショップを使えることがデザインできることと勘違いしてしまってるんじゃないでしょうか。

わからなさに対峙し、自分自身で創意工夫を

結局、デザインとは自らがいまだ答えの見えぬ謎に対峙して、なんとかそれを制しようと自らの創意工夫をもって、わからなさという形なきものに、これぞという形を見つける作業なんです。いろんな創意工夫で、これだと思える形を見出す過程がデザインにほかなりません。どうしたら人びとの暮らしのなかの問題を解決するか? それにはどのような形が必要なのか? そこに創意工夫をするのがデザインでしょう。

しかし、残念ながら、その創意工夫への努力が欠けています。
自分の頭で考えて創意工夫をするのを避けたがる。自分の頭で考えるということをそもそも全くしようとしません。その代わりになるものかと思って手法に安易に手を出してみます。手法を使えば自動的に答えが得られるのではないかと勘違いしているのです。
しかし、手法は本来、創意工夫の代わりになるものではなくて、創意工夫の数をこなすのを助けてくれるものなのです。手法はむしろ創意工夫に費やす時間や労力を増やします。いくつもの創意工夫を行うことを可能にしてくれることで、それらの手法はデザインの役に立ちます。

それを誤解して、手法を使えば自分で考えて創意工夫をしなくてもデザインができると勘違いしているものだから、手法そのものがわからないということになる。そりゃ、そうですよね。もともとわかろうとしているものは、期待しているものとは違うものなんですから。はじめから理解の方向がずれていたら、いつまで経っても理解には至りません。

ポ~ニョ、ポ~ニョ、ポニョ、さかなのこ

目の前にある問題にどう解決策としての設計案を考え出すか。手法が自動的にその答えを出してくれるなんてことがあるはずがない。そんなことを期待するならデザインに関わるのなんてやめればいい。

宮崎駿さんが雑誌「Cut」のインタビューでこんなことを言っていました。「『ポニョ』において「2次元アニメの伝統の継承」というのは大きなテーマですよね」という質問に対して。

というよりも、もう少し積極的になったんですよね。鉛筆という具体的なものに(笑)。描くのがヤだったらやめろって思うんですね。機械に描いてもらおうっていう発想でCGに頼むということは、CGが人を雇って、その人間が機械で絵を描いているようなものですよね、結局。だったら鉛筆で描きゃあいいんです。描くのがアニメーターなわけでね。それがヤだったらアニメーターをやめたほうがいいんじゃないかっていう。
「宮崎駿4万字インタビュー・『ポニョ』は、なぜあの高みに到達したのか?」

おんなじですよ。自分の頭で、自分の手足で創意工夫をするのがヤだったらデザインするのなんかやめたらいいんです。

創意工夫の量を増やすためであり、減らすためではない

ちなみに宮崎駿さんは「マウスで描くとか、電気のペンで描くことのほうが未来に繋がってるんじゃないかと思う人たちもいると思うんだけど、僕は繋がっていないと思ってるんですよね」とも言っています。
僕もそのとおりで繋がっていないと思う。それぐらい、いまのGUIの仕組みにも、情報技術にも、人間の創造性に関する面では欠陥があります。そして、そのことに自覚的でない人が多すぎることが危険だとも思っています。

そのあたりはユーザー中心のデザインの方法を扱った本である『ペルソナ作って、それからどうするの?』にも書いています。その意味でも、僕がデザインの方法について紹介したり、自分でも使ったりするのはあくまで創意工夫の量を増やすためであって、それを減らしたり、なくしたりするためではないということははっきりさせておきたいと思います。

他人をもてなすための創意工夫

デザインの手法は、自動に創意工夫を代行してくれる機械じゃなくて、デザインする人が創意工夫をするのを助けてくれる鉛筆のようなものです。鉛筆や絵筆やペンやはさみやのりであって、電卓やコンピュータとは違う。

もちろん、統計学を応用したマネジメントやマーケティングの手法とも違って、数字をいじって1つの答えが導き出せるってのとは根本的に違います。
いままでデザインということをやってきてない人で、マーケティングなんかをかじったことのある人はそこを勘違いしてしまうんですね。

別にデザインの手法を使ったって1つの答えが見つかるわけじゃないんです。料理法を覚えるのといっしょで、いろんな料理がつくれるようになるだけです。そのレパートリーのなかから、いつどの料理を出すかは、それこそその料理で誰をもてなしたいのかによるでしょう
そこに創意工夫を凝らす楽しさがあるんじゃないでしょうか? まさに茶の湯における一座建立の楽しみですよね。他人をもてなすために創意工夫をこらす以外にデザインに求められることってあるんでしょうか

その創意工夫に楽しさを感じられないなら、デザインなどという他人のもてなしに関する仕事からはきれいさっぱり足を洗えばいいだけです。無理しなくても、他にも職はあるはずですから。

   

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