グラフィックデザインの場合に限って言えば下積みの期間もなく簡単に線が引ける様になって、結構誰でも一人でコントロールできる工程が格段に増えました。
コントロールしようと思えば、どこまででもコントロールできるようになってしまっていて、今まで気にしていなかった部分まで気にしなくてはいけなくなったのでは? と思っています。
僕が「本来身体から切り離せないはずのデザインという行為を、やたらと機械や方法論のほうに切り出してしまっていて、それゆえに全体が見えなくなってしまっている感はないでしょうか? 手で線を引いていた時代には見えていたものが見失われていて、ユーザー中心デザインなる方法も過剰に特別視しすぎてしまっているような気がします。」と書いたことへのコメントです。
ツールは「線を引く」という作業を操作に変える。
「下積みの期間もなく簡単に線が引ける」。まぁ、確かにそうでしょう。このことを必要以上に悪くいうつもりはないのですけど、そのことが無条件にいいことだとは考えることはできないと思います。間口が広がったことはいいことだと思いますけど、下積みという経験から得られるものがなくなったことはむしろ損だと思うからです。結論からいえば、「下積みなしに線が引ける」ことと「下積みをやってはじめて引ける線がある」ことは同居している状態のほうが僕はいいと思っています。
「下積みの期間もなく簡単に線が引ける」ようにしているツールは、線を引くという作業を、単なるUIの操作に変えてしまっているということにもうすこし敏感になっていいのではないかと思うんです。
線を引く速度や筆記具をもつ腕の角度にも気をつけて行われる手で線を引くという身体的な作業が、単なるオペレーションに変わってしまっている。その違いを感じたければ、キーボードで文字を打つことと、紙の上にさまざまな筆記具で文字を書くことの違いを感じてみればよいのです。
念のため、「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」で引用したノーマンのメモするということに関する考察をもう一度引用しておきましょう。
ノーマンは、メモやチェックリストの使用を例に次のように指摘する。メモやチェックリストを作業で使用している場面を第三者的に外から眺めた場合には、それらの道具は記憶と作業の遂行の両面を補助し、強化するもののように見える。しかし、作業を遂行している人にとっては、メモやリストを使うことそれ自体が新たな作業であり、しかも、その作業はそれらを使わずに行うのとはまったく異なる作業であると。このように、道具は、使う人の認知を強化するわけではなく、作業自体を変えている。川床靖子『学習のエスノグラフィー』
手描きで線を引くのとPC上のツールを使って線を引く場合で何が違うかって、極端な話、ツールを使って線を引く場合、見なくても線が引けるわけですよ。線を感じることなく、操作ができる。
キーボードで文字入力する場合も同じ。文字の形を意識することなく、文字が書けてしまう。
ツールを使って線を引く、文字を入力するという作業はもはや、手書きで線を引いたり文字を書く作業とはまったく別物になっていると考える必要があるのだと思います。
それは決して「線を引く」という作業を単純にサポートしているわけではなく、「線を引く」という感性や身体的能力を必要とする作業を単なるオペレーションに置き換えてしまっているのです。
ツールは「線を引く」という作業を操作に変える。
ようするに、「線を引く」という作業を、見ないでもできるオペレーションに変換してしまっていることに気づかないということは、形を扱っているはずなのに、その形が意識されないまま、感じとられることがないまま、自分が線を引く操作をしてしまっていることにも気づかない状態なのではないでしょうか。「トキメキについての感性がない」でも引いた『二十世紀の忘れもの―トワイライトの誘惑』のなかの言葉をもう一度引用しておきましょう。
佐治 やっぱり事象のなかに自分を重ねることができなくて、遠くから見ているんでしょうか。自分を重ねるのが怖いんでしょうね。
松岡 オペレーション(処理)してしまって、ドライブ(能動)していない。
PC上のツールで線を引く場合、単に実際に線があるところからは遠く離れて操作をしているだけですから、その線を引くという行為にトキメキは感じにくい。自分はモニターの外から単に操作をしているだけであって、その形のなかに参加せずにも済ませることができる。
しかし、手で線を引いている場合、その線を引く画面全体に参加する形で線が引かれますので、その内部において常に全体を意識しながら図面を書くという作業が行われます。Photoshopのようなレイヤーの機能はないわけですから、その線はすでに引かれていた他の線と1つの図像を形成して、1つの部品・要素というよりも全体とつながった一部と感じられるはずです。
もちろん、それを分析的に取り出すことは可能です。でも、分析的に取り出す行為は線を引く行為とはまた別の行為として行われます。線を引く際、線が引かれた図面を見ている視覚にとってはそれは1本の線というより他の線と1つの図像をなす全体の一部として感じられるはずです。PC上の操作のようにどこか別のところで作成した線をこっちにもってきて、他の要素の横に置くという操作的な行為とは異なります。手書きで作成された紙の図面には、Photoshop上の線のようにレイヤーの1つを不可視の状態すれば要素が消えるというオペレーショナルに扱える線はそこには存在しません。
あなたはオペレーターですか? デザイナーですか?
この違いに気づいてないのだとしたら、形を扱うデザイナーとしては、ちょっとイケてないないんじゃないかって思うんですね。あなたはオペレーターですか? デザイナーですか? と問わなきゃいけないくなってしまいます。これは悲しい。PC上のツールで引いた線が、手書きの線や印刷物の線と同じであると感じているのだとすれば、それはもはや線がもつ質量を身体的に感じ取れなくなっているのであって、線が質量をもたない数学的な線になっているのではないでしょうか。肌触りも温もりもない線が無意識に提示するような、そんな感覚の麻痺したデザインじゃどうしようもないでしょう。
もちろん、ツールを使ったって、そのあたりをちゃんと意識してデザインしてる人はいます。それはツールではやりにくい下積みを自分なりにどこか別の方法でやられているからできるのではないかと思うんです。だから、僕は別にツールを使うこと自体を否定しようとはまったく思いませんし、僕だって文字を書くのはPC上の方がよっぽど多い。今回の本だってとうぜんPCで原稿を作ったし、図版もPCで作りましたから。
だから、PC上のツールを使うなら、手で線を引いていた頃ならそれだけで下積みになった身体的・感覚的訓練を道具を使う作業とは別のところでする必要があるということをしっかり意識すべきなんだと思います。
その1つの下積みの代わりになるのが、ユーザー中心デザインにおける観察という行為ですし、プロトタイピングを使った検証なんだろうと僕は思っています。「線を引く」作業から形を身体的に意識することができなくなっているのだとしたら、すでに人びとが暮らす生活のなかにあるモノの形と人びとの行動における形との関係をひたすら観察から学んで、それを身体に吸収することが必要なんじゃないかと思います。
下積みの経験がない分、必要となる別の経験
「ユーザー中心デザインなる方法も過剰に特別視しすぎてしまっているような気がします。」そう書いた背景がここにあるんです。ユーザ中心デザインといったってユーザビリティ云々の話じゃないわけですよ。デザインそのものの根本的な問題がここにあると思ってます。ユーザー中心デザインの方法を付加的プログラムとしてデザインプロセスに組み込むことが必要になった背景には、作業から直接身体的デザイン感覚を鍛えることができなくなった現代ゆえのデザイン環境があるんだと思います。かつて徒弟制のなかで普通にやれていたことが、ただ単にツールによって物理的な線を引くことだけは下積みなしでできるようにして、どんな線を引くかについてはまったくフォローしていないところに、ある意味ではよけいともいえる観察という作業をデザインプロセスのなかに組み込まざるをえなくなった1つの原因があるのでしょう。それは単に作るものがインタラクティブなものになったというだけでは決して説明しきれないものだと僕は考えています。
といっても、観察という追加プログラムだけで事足りているかというとそれはまた別の話。僕がユーザー中心デザインを超えて、もういちど、天才たちの仕事に着目する必要があると思っているのはそのあたりにも関係してのことだったりします。この話はまたおいおい。
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