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2008年05月29日

『ペルソナ作って、それからどうするの?』といっしょに読みたい参考文献:4.脳と意識、生物編

いよいよ明日発売の『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』。書店によっては今日から店頭に並んでるところもあるようです。献本した人からもらった最初の「読者の声」。「ケーススタディがおもしろかった」だそうです。確かにあそこは人によってはおもしろいと思う。僕自身、小説仕立てのあそこが書いてて一番おもしろかった。

さて、発売日直前に最後の「いっしょに読みたい参考文献」の紹介。
これまでの紹介はこちら。


では、さっそく。

脳科学・意識

ユーザー中心のデザインを考える場合には、脳科学や意識についてもある程度知っておいた方がよいでしょう。参考文献としてはこんなものを挙げています。

  • 脳は空より広いか―「私」という現象を考える/ジェラルド・M・エーデルマン [書評]
  • 赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/ニコラス・ハンフリー [書評]
  • 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤/下條信輔 [書評]
  • 脳と創造性 「この私」というクオリアへ/茂木健一郎 [書評]
  • 脳とクオリア―なぜ脳に心が生まれるのか/茂木健一郎 [書評]
  • 天才論/茂木健一郎 [書評]

『脳は空より広いか』。脳神経科学者ジェラルド・M・エーデルマンが、神経細胞群選択説=TNGS(Theory of Neuronal Group Selection)とダイナミック・コア仮説により、意識とクオリアの謎に迫る一冊。エーデルマンが提唱するTNGSという理論は、ダーウィンの進化論における中心的テーマである"集合的思考"を神経、ニューロンに適応したモデルであり、従来の脳をコンピュータやチューリングマシンになぞらえた既存のモデルとは大きく異なり、個体に固有のクオリアが意識になぜ宿るのかについてとても納得いく説明を可能にするもの。脳内のニューロンのネットワークのような複雑系において、再入力と呼ばれる縮退のしくみをもったプロセスが働くことで、「ひとまとまりに統合されていて脳内で構成される」「膨大な多様性をもち、次々と変化する」などの特徴をもった意識が生まれる。エーデルマンはこれをベースにクオリアを説明する仮説を提案しています。

『赤を見る』。ニコラス・ハンフリーの『赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由』は、スクリーンに映し出された赤い光を見るという行為の中に生まれる感覚とその性質、それが進化してきた過程を探りながら、人間の意識の謎に迫ろうという大変おもしろい試みを、実際に2004年春にハーヴァード大学で行なわれた講演をベースに再構築して書かれた本。感覚は主観的で、かつ、私秘性をもちます。知覚されたものは客観性をもち、主体が関わるかどうかに関わらず、そこに存在します。それは他者との交換が可能ですが、感覚それ自体はきわめて私秘性が高いがゆえに他者の交換、共有が厳密には不可能といえます。感覚は、主体その人がつくり出すものであると、同時に、ハンフリーは感覚こそが主体を作り出しているのだと考えます。

『「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤』。錯視や錯誤を手がかりとして、脳と意識、意識と身体、環境などの深いつながりについて考察している本。下條さんは意識を脳が身体、環境と相互作用する中で生じてくるものと捉えています。脳の来歴という言葉は、意識が脳と身体や環境との相互作用の結果を蓄積し、それらに適応していく中で生じてくるものだということを示すものです。そうした蓄積による環境適応が錯視や錯誤を生むわけです。意識を生み出す脳は、身体に、環境に、そして、脳がこれまで辿ってきた歴史につながっていて、それらの相互作用によって、いまある世界を主観的に見ているのであって、そこには客観的な正解という図像は浮かび上がってこないことになります。意識や自由意志といったものを、身体や環境から切り離して考える還元論的な思考がもはや機能しないことがこの本を読むとよくわかります。

『脳と創造性』。「他者の存在が、自分自身が何者であるのかを発見する、あるいは新しい何かを創造する上で重要な役割を果たすことは、会話において典型的に現れる。」会話とはいうまでもなく脳にとっては外部の存在である言葉をもって行われます。茂木さんが言うように、他人に話すことは同時に自分に話すことでもあります。しかし、他者に向けて脳の外へと外部化される言葉は、脳の中だけにとどまる独り言とは違い、常に予期せぬ返答が返ってきたりします。自分の思っていたことが他者の目に晒され、他者の読解によって新たな他の感情を帯びた言葉となって自分の目の前に再度あらわれると、もはやそれは最初の自分の言葉が元になっているとは思えない外部性を秘めて自分に突き刺さってくるように感じることがあります。そのとき、はじめて他人に話していたつもりが実は単に自分に話していただけなのかもしれなといと感じられたりします。ここに創造性の発露がある。「創造性の最高の形式の1つは、自分自身が変わることである。」

『脳とクオリア』。この本を読んでの一番の感想は、茂木健一郎さんというのは物理学者なんだなという印象をもったこと。心の機能である認識、意識、理解、そして、クオリアなどをすべて「ニューロンの発火」から説明しようとする徹底したアプローチは、とても物理学的な印象を与えるものでした。ニューロンが個別で認識を生み出すのではなく、ニューロン相互の関係における自己組織的な活動を通じて生まれてくるということと、その自己組織化の過程において「相互作用連結なニューロンの発火は(固有時τにおいて)同時である」という「相互作用同時性の原理」によって説明が可能になります。もちろん、これは茂木さんの仮説であり、それが証明されたわけではないにしても、この物理学的な発想は従来の考え方をきわめてラジカルに覆すパワーをもっているという印象をもちました。

『天才論』。茂木さんがレオナルド・ダ・ヴィンチについて考察しながら、天才とは何か?ということや、天才と総合力の関係について、ご自身の考えを述べた本。茂木さんは、レオナルドが「ふたつの目」で世界を見ていたであろうという考察しています。「ふたつの目」とは、生涯30体以上の解剖を行い、機械としての人間、人体を機械としてのパーツに分けて描いたレオナルドと、『モナ・リザ』に代表されるように見るものに謎めいた不安感を与える絵画を描き遺したレオナルドという、異なる2つの面をもつレオナルドの特異性を称したものです。ひとりの人間のなかでそのふたつは「ふつうは相容れないものではないでしょうか」と茂木さんは言います。そのふつうでない「ふたつの目」を同居させていたのがレオナルドの天才性であると茂木さんは見ています。

   
 

生物学・生命

人間も生物です。生物学もかじっておいたほうがよいでしょう。

  • 生きていることの科学/郡司ペギオ-幸夫 [書評]
  • 系統樹思考の世界/三中信宏 [書評]
  • 祖先の物語 ドーキンスの生命史/リチャード・ドーキンス [書評]
  • 本能はどこまで本能か―ヒトと動物の行動の起源/マーク・S・ブランバーグ [書評]
  • デクステリティ 巧みさとその発達/ニコライ・アレクサンドロヴィッチ
  • 動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ/池上高志

『生きていることの科学』。僕たちが「わたし」という質量性をともなう肉体を介して行っている事前における部分と事後において後ろをふりかえった場合にみえる全体の結びつきは、実は事前における一人称的な見方と事後におけるある意味自身の行動を客観視した上での三人称的な見方が混在することが成立しています。そして、この本来結びつきにくい両者を結び付けているのが「わたし」という質量性をともなう肉体の介在であり、その肉体が事前から事後へ移る過程で感じる「痛み=傷み」という体験だと郡司さんは考えています。携帯電話などの複雑なシステムにおいて部分情報問題が問題になるのは、この予期としての知覚をインターフェイスが誘発しないことに起因するのでしょう。そして、それは「痛み=傷み」のような主体にとって価値のある経験をあたえる情報の欠如があるからだと考えられます。

『系統樹思考の世界』。三中さんは典型的な科学が用いる2つの推論様式(「演繹」と「帰納」)に対する第3の推論様式として、記号論の創始者であるチャールズ・S・パースの用いたアブダクションという方法を導入することを提起しています。アブダクションとは、与えられた証拠のもとで「最良の説明を発見する」という推論方法であり、理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する方法です。専門領域を分類するにしても、単に領土の取り合いのように平面的に境界線を区切って色分けするようなやり方ではなく、系統樹的な歴史を含む分類法により個々の分野の関連性も含めた分類を心がけたほうがよいように思います。そうでなければ、メビウスの輪にはまったエッシャーのネズミ達を自由な世界に解放してあげることもできないのではないか?(これは昨日の「a href="http://gitanez.seesaa.net/article/98352150.html" target="_blank">ヒット商品、データベース、そして、言葉の壁」で書いた問題にも通じますね。)

『祖先の物語 ドーキンスの生命史』。ヒトから進化の系統樹をさかのぼって、生命の歴史を探索する本。歴史はそれが物語であり、その物語という線形的な語り口の性質からして、終わりを目的地に据えて語られます。しかし、ドーキンスが見るように、人間中心的に進化の歴史を時間の進行どおりに語ってしまうと、進化が人間を目的として実施されてきたという誤解を招く可能性があります。実際には人間は特別な目的地でもなければ、進化の最終形でもないわけで、ゾウから見ればゾウを目的とした進化の物語を語れるわけですし、すでに絶滅したヒト科の祖先ホモ・エレクトゥスをゴールに据えた物語も、私たち自身の存在を無視すれば実は可能なわけです。ドーキンスは本書を通じて、この類の「不連続精神」なるものに警告を与え続けています。それは直接、「不連続精神」について語られる<サンショウウオの物語>では、貧困と富裕の不連続性、教育現場での成績のレベル分けにおける不連続性、伝染病であるものとそうでないもののあいだの不連続性についても言及されています。

『本能はどこまで本能か』。マーク・S・ブランバーグは、本書の目的を「行動と認識に関心をもつ読者のために、適切な視点を提供すること」と記しています。時計と変わらぬ、また、それ以上に複雑なしくみをもつ生物が、ただの自然選択だけで実現できるはずもなく、そこには優秀な時計職人のような設計者の意思や思考が必要なはずだという進化論の自然選択に対する批判としてある。しかし、著者はこの考えをまったく裏返しにする形で反論を行います。フォークやナイフ、本や本棚などの人工物の進化を研究するヘンリー・ペトロスキーなどの著作なども引用しつつ、そもそも人間のつくるデザインそのものがひとりの天才がその卓越したひらめきによって生み出したものなのではなく、たくさんの人が関わる歴史のなかの失敗と改善の繰り返しのなかで自然選択的に優れたデザインが残ってきたのだということを明らかにするのです。

   
 

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2008年05月29日

ヒット商品、データベース、そして、言葉の壁

好きだな。こういう言い方。そして、その内容も。

少しく控え目な私的コレクションを描いた絵など見ても、アーリーモダンの博識家たちが普遍だの、包括だのということを信じていなかったことがわかる。その大なるか小なるかを問わず、いかなる貯蔵庫をもってしても、あらゆる学知をおさめることはできない。デジタルなデータベースにさえ、できない。
バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』

どっかの大きなネット企業さんに聞かせてあげたいですね。
『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』を読みはじめて以来、バーバラ・M・スタフォードの解くイメージングの世界にはまってますが、なるほど絵で考えられる人って確かに、「あらゆる学知をおさめる」箱を作ることができるということがいかに妄想じみているかには早くから気づくことができたのでしょうね。

マーケティング発想ではヒットは生まれない

それが逆にテキスト人間、数字人間だとわからない。池田先生も書いてましたけど、マーケティングやってる人は数字や言葉を相手にしてれば、売れるものが作れると相変わらず妄想を抱いてるようですが、数字をいじったところで無駄はなくせてもヒットは生まれないですよ。それにはグッド・ルッキングな視覚の力で、執念深くプロダクト志向でものづくりに精を出す方向に回帰しなきゃ、ダメですって。

アップルさんだけじゃなくて、GEだって、シックスシグマ(数字)のウェルチからものづくり・デザイン志向のイメルトに代わって業績上がってるわけでしょ。これね、シックスシグマの手法とデザインの方法をちゃんとよく吟味するとなぜなのかがわかります。数字じゃなぜダメで、ものづくり的な創造的発想がなぜ必要なのか。そして、両者の違いは何かということが。まぁ、答えは言わないのでそれぞれ考えてみてください。

まぁ、無駄をなくすのも利益をあげるひとつの方法ですけど、それ、やりすぎると「デザインの現場に元気がない理由?」でも書いたとおり、自分たちのものづくり能力をどんどん失っていくだけだと思うんですよね。きっとその無駄のほうが削減してる無駄より、よっぽど大きいはずなんですけどね。

いい加減、数字一辺倒なマーケティング発想に偏りすぎるのはよして、視覚の力を活かしたデザイン発想にシフトした方がいいですって。「カオス/池田研介、松野孝一郎、津田一郎」でも紹介したように科学の分野はとっくに物事をやたらと切り刻むだけの分析的発想だけじゃ埒があかないことに論理的にも直観的にも気づいているわけです。数字を扱うのは何枚も上手な科学の分野がそうなんですから、そろそろねー。

おっと話が逸れましたね。「あらゆる学知をおさめる」箱はないって話でした。

言葉じゃつながらない。特にテキストじゃ

アーリーモダンの博識家たちは自分たちの博識が一個の箱にはおさまりきれないことを視覚で直観的に理解していた。なぜなら、自分たちの博識が視覚的にはネットワーク状につながっていること、しかも、それが静的なネットワークではなく動的で、しかも、観察者の観察がそのつながりに大きく関与するような形のネットワークとしてつながっていることを知っていたからだと思います。ようは、そのつながりは観察者の観察自体がつながりの要因のうちに含まれるアナロジーの力でつながっていたのだから。そうであるがゆえに、観察者を除外した計算・分析的な分類法だけでは「あらゆる学知をおさめる」ことはできないのは当然です。

言葉的な分類ではアナロジーによってつながったネットワーク状の要素を絡めとることはできません。これは普段から視覚的ものづくりに真剣にたずさわっている方なら無意識に感じていることなんだろうなということを、最近、視覚的ものづくりに関わる人とそうでない人の話を聞いていると感じます。

これが口頭で発せられるコミュニケーションだとすこし事情が違ってきて、テキストベースでは見えなかったつながりが、視覚ベースほどではないにせよ、発動するんですね。その意味で文字文化以前のオーラル・コミュニケーションの世界ってもっとアナロジーが機能する場面が数多くあり、いまとはまったく異なる論理体系で世界が回っていたんだろうなと考えられます。

Webのネットワーク上では本来的な意味でのセレンディピティは期待できない

そんなわけで「ゆゆしき人間中心設計者」で書いた話ともつながってくるわけですが、僕は最近、ブログはつながりをつくる的な発想の限界をはっきりと感じるようになりました。ブログだけじゃなくて、いまのWeb全体ですけど。このデザインじゃ見知らぬ遠くの者同士がつながることはあっても、領域を超えたつながりはうまれにくい。もうすこし正確に言うと共通言語をもたない者同士のつながりが生まれることを期待するのはほとんど不可能だと思ってよいでしょう。共通言語っていうのは日本語と英語とかそういう意味じゃなくて、会話でおなじ話題ができるとか、喧嘩になろうとも議論ができるとか、そういう意味での共通言語です。そもそも、話が噛み合わない同士は、いまのWebのネットワークではつながりが生み出せない。それは検索の際に、最適な言葉が思い浮かばないと探しているものを見つけられないのと同じです。

20世紀末、共同体生活がずるずるになり、偏倚なカルトが次々花を咲かせて、自分の頭では考えないひたすらな黙認、それでいながら我は頑として離さない態度を人々に植えつけたために、差異を超えて話すこともまた、できなくなっている。
バーバラ・M・スタフォード『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』

まさにこの状態ですね。「へんいなかると」が何を指してるのかはよくわかりませんが、「自分の頭では考えないひたすらな黙認」とか「我は頑として離さない態度」はまさに現状をよく表してますよね。
こういう状況をより加速しつつあるWebのネットワークでは、本質的な意味でのセレンディピティって起こり得ないのだろうなと最近考えてます。普通に生活していれば、たとえば街中を歩いていて、ふと気づく、わかっちゃうような、そういう発見が起こりえないんですよね。

なんかうまい説明の仕方が見つからないので、与太話的に書いていますが、ここで書いてることって全部つながってることだと思っています。

マーケティングではヒットは生み出せないこと。どんなデータベース・システムをもってしても「あらゆる学知をおさめる」ことはできないこと、そして、いまのWeb上のネットワークでは領域横断的なつながりや本来的な意味でのセレンディピティは期待できないこと。

この問題を解決できるデザインの方法、視覚的編集方法こそが必要なんだろうなと思います。

  

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2008年05月29日

[Essay]島耕作社長就任会見

アニメもここまで来ちゃいましたね。 リアルとバーチャルのボーダーが曖昧になってきて居ますね。 この場合は、アニメ上の架空の人物によって、仕事の指南を与えられると言った良いケースだと思います。 以前のエントリ:[Essay]ネットモンスター で、バーチャルの負の面について書いたのですが、同じ内容をFPNというニュース投稿サイトにアップしたところ、匿名の方から指摘を頂いたのですが、ネットには、『マルチプルアイデンティティ』のような正の面もあるということです。 マルチプルアイデンティティについては、不勉 ...

2008年05月28日

ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか

ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか。
それはものづくりやデザインに関わる人にとって非常に重要なことではないかと思います。

マーケティング的発想やユーザー中心のデザインというものを誤解していたりすると、ユーザーにはもともと不満やニーズというものがあると想定してしまいがちです。なるほど、調査をしたり、ちょっと話を聞いたりすれば、人は自分が使っているものや自分が置かれた環境に対する不満をいろいろ述べるかもしれません。時にはもっともらしい話で、ある時、○○をしようと思って××をつかったら、△△の問題があってうまくできなかったという話をあなたに聞かせてくれるかもしれません。それを聞いたあなたはなるほどユーザーには「○○をしよう」というニーズがあるんだと考えるかもしれません。

でも、ちょっとだけ結論を急ぐのを待ってほしいんです。

というのは、「○○をしよう」とユーザーが思ったのは、実は「××」というものがアフォードして生まれたニーズなのかもしれないからです。ユーザーがそれを不満に感じたのは、「××」が「○○をしよう」と思わせるようなアフォーダンスを持ちながら、実際には「○○する」ことを妨げるような「△△の問題」があったからで、実は「××」が「○○する」ことをアフォードするようなデザインになっていなければ、そもそもユーザーは何も不満を感じなかったし、それどころか「○○をしよう」なんてことすら思い浮かばなかったし、その必要もはじめからなかったのかもしれないからです。

人とものとの関係はそもそもインタラクティブ

昨日紹介した『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』のなかでバーバラ・M・スタフォードも指摘していることですが、従来の主体-客体という関係性のなかで人-ものをみる思想においては、あたかも人の側に最初から固定的にものを使う理由や目的、ニーズといったものがあって、それを叶えるものとして道具があるという風に考えがちです。

しかし、実際はここまで書いたように、人とものとの関係はそもそももうすこしインタラクティブで、以前、「人生においてタギングは不可避」や「ブランドとは何か?:1.A Model of Brandとパースの記号論」でも紹介したようなチャールズ・S・パースの記号論(Semiotics)における三項論理のように、人-もの-ニーズ(用途)という関係が成り立ちます。人が変わっても、ものが変わっても、ニーズ(用途)は別の解釈が成立する関係です。

ようするに、ニーズ(用途)というものがそもそもアプリオリに存在すると考えるのが間違いなのでしょう。いまあると思われるニーズは現実にある環境やものが生み出したものだし、逆の見方をすれば、あるものをつくることでニーズそのものをつくることができるとも考えることができます

道具は使う人の作業自体を変える

このことをうまく表現しているのが以下の文章です。

ノーマンは、メモやチェックリストの使用を例に次のように指摘する。メモやチェックリストを作業で使用している場面を第三者的に外から眺めた場合には、それらの道具は記憶と作業の遂行の両面を補助し、強化するもののように見える。しかし、作業を遂行している人にとっては、メモやリストを使うことそれ自体が新たな作業であり、しかも、その作業はそれらを使わずに行うのとはまったく異なる作業であると。このように、道具は、使う人の認知を強化するわけではなく、作業自体を変えている。
川床靖子『学習のエスノグラフィー』

メモやチェックリストは、認知をサポートすることで作業を効率化しているのではなく、メモをする・チェックするという作業を新たに追加することで、作業全体の問題点を別のものに変えているというわけです。覚える・記憶するという作業を、記述する・記録するという別の作業に変えることで、人間の行動目的とその方法そのものを変質させているわけです。

最初に「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」ということを問題提起したのは、こうした意味でです。

ユーザー中心のデザインからイノベーションが生まれる場合とそうでない場合

ユーザー中心のデザインのアプローチで、最初にユーザーの行動やそのコンテキストを、エスノグラフィーやコンテキスチュアル・インクワイアリーなどの手法を用いて観察・インタビューする際にも、パースの参考論理的な人-もの(環境)-ニーズ(用途)のダイナミックな関係が想定できていないと、見たまんまの現象から誤ったユーザーのニーズや製品などのデザインの問題点などを固定化してしまう可能性があります。

それでは今あるものの改善はできても、イノベーションは生まれてきません。そこがユーザー中心のデザインのアプローチをイノベーションに用いることができているIDEOなどのアメリカのデザイン現場と、おなじアプローチをせいぜいユーザビリティの改善にしか用いていない日本のデザインの現場の違いなのでしょうか。

ものづくりを行ううえで「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだ」という発想をもち、それを踏まえたうえでのものづくり哲学をもっていないと、人のニーズと道具の関係が固定化された誤った図を描いてデザインをしてしまいがちだと思います。

繰り返しますが、それではイノベーションは生まれえません。

道具は身を入れて使え!

特に最近では、ものづくりやデザインにおいて、手法や技術が必要以上にクローズアップされている印象があります。手法だの技術だの勉強するのはもちろん大事ですけど、学生じゃないんだから、どっしりした哲学もってものづくりしなさいって思います。
いやいや、これは実際に手を動かしてもの作ってる人だけじゃなくて、ものづくりに関わる調査や企画してる人にも言えることです。自分の腹に哲学がなきゃ、いくら手法だの技術だの習得したって、作るべきものの形は見えてきやしません。

別に手法や技術の習得に明け暮れるのが悪いって話じゃありません。むしろ、勉強はどんどんしていい。一生し続けていいし、しなきゃだめだとも思います。積極的に新しいものを身につけていこうとする姿勢の人が僕は好きですし、自分もそうしようと思っています。

でもね、やっぱり自分の仕事がどこにどうつながってて、そのつながりにおいて自分は何であろうとするのか、自分の仕事が何をもたらすのかということを、そのネットワークの中で哲学として持てているかいないかで、取得した手法や技術の身に付き度合いがぜんぜん違ってくると思うんです。自分の仕事が世界をどう変えていくのかを意識できていて、そのうえで自分の仕事にどのような哲学をもって臨むかの覚悟がないかぎり、うわべだけ手法や技術を習得したって、それらがまともに役立つことはないでしょう。
道具はしっかりとした哲学がつまった身を入れて使わないかぎり、まともな答えなんて導き出してはくれません。「身体の一部としての道具という発想」が必要なんだと思います。しかも、しっかりとしたものづくり哲学をもった身体に道具はつながっているのだという発想が。
道具を使う手に魂がこもってないかぎり、道具や技術がどんなに進歩したところで、昔も今もよいものづくりなんてできるはずはないと思っています。

ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか。
それはものづくりやデザインに関わる人にとって非常に重要なことではないかと思います。

   

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2008年05月27日

[本] サムライ営業 - すぐ売れる技術より、売れ続ける極意


社会人になり、早1ヵ月が経過した。1ヵ月の新人研修期間が終了し、同期が各配属先で様々な思いで社会人生活を送っている。僕は志望していたエンジニアに配属され、しばらくはエンジニア研修の日々を送ることになっている。1ヵ月の新人研修内で、社の役員の方々によるご講和があり、その中で僕が最も印象に残った役員の方が書かれた本、それが今回ご紹介する「サムライ営業」である。



「サムライ営業」を読むきっかけとなったのは、新人研修の一環で行われた営業研修で僕なりに思うことがあり、それをリクルート時代に飛び込み営業の新記録(1 日に304件)を樹立した著者である大西芳明氏と本を読むことで対話してみたかったからだ。1ヵ月もの期間を設け、新人研修を行う企業は数少ないと聞いている。僕達は1ヵ月もの間、様々な研修を受けてきたが、3分の1は営業研修に費やされた。BtoC(Business to Customer : 企業→顧客)営業が主だったのだが、その中で僕は「数値的目標と顧客満足の最大化の不一致」について悩まされていた。結局、会社で働いている限り数字は追い求め続けなければいけないのは確かである。研修中とはいえ、数値的目標は掲げられ、実際に社の利益に反映されるわけだからだ。しかし、数字を最優先してしまうと、お客様に満足してもらえるセールスを提供することができなかった。


僕が著者と対話するにあたって重点においた事柄は「目標は大きく、そして幸せの基準は小さく」である。受注ができないと悩むのは、幸せの基準が高すぎる証拠であると語る大西氏。営業とは「信頼を得る」ことである。それは、幸せの基準を受注ではなく、名刺をもらえたことに置き、感謝する心を常に持つということだ。営業研修中の僕はどうしても数値的目標を最優先してしまっていたことに悩み続けていたわけ、それは幸せの基準が高かったことに気付いたのも言うまでもない。数字をとるために相手に親身になって考えるのか、それとも相手に親身になった結果数字がついてきたのか、この違いが自分又は会社を基準とした利己的な営業かどうかに関わってくるのだ。


著者である大西氏は、軸となる哲学をしっかりと持っていらっしゃる方だなという印象をまず受けた。同期の中で既に「サムライ営業」を読了した人が数名いたが、感想は賛否両論である。数多くのレビューをネット上で拝見してきた僕からしてみれば、賛否両論になる書籍には一貫してある共通項が存在することがわかった。それは、著者の哲学が全面的に押し出されているか否かである。最後の最後に僕が共感した大西氏の営業に対する哲学、それは「信頼関係の構築という点において、営業は人生そのものと心得る」ことである。


「営業というのは限られた人の仕事、領域ではない。そこに問題があり、それを解決していく。また、両者の合意に導いていくということはどこにでもある世界なのである。極論すれば、人生を生きていくこと自体が、まさに営業的な行為だと言えるのではないか。」 - pp176


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2008年05月27日

『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』:書影が公開

いよいよ今週金曜日30日に発売が迫った僕の著書『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』ですが、ようやくamazonで書影が公開されました。

こんな感じ。



本の内容や目次などは、「『ペルソナ作って、それからどうするの? ユーザー中心デザインで作るWebサイト』:amazonにて予約開始」というエントリーで紹介しています。興味のある方はそちらも参照ください。

ちなみにWebデザインをいちお想定して書いていますが、実は書きながら組み込みソフトのデザインへの応用も念頭には置いて書いています。
説明はWebデザイン向けになっていますが、読んでもらうとわかるとおり、方法論は組み込みソフトでも問題なく使えます。ですので、そのあたりのデザインに関わる方にもぜひ読んでいただきたい一冊です。というよりも僕の持論として、情報デザイン、特にUIのデザインにおいて、Webとか組み込みソフトとか、そんなところに境はなくて、境があるとすればそれは利用者の違いによるものだと思っています。Webと組みこみソフトでデザインが違うのではなく、ユーザーの用途や利用のコンテキストでデザインが違うというのが、ユーザー中心のデザインの発想だと考えていますので。



で、僕の手元にもようやく今日、実物が届きました。



amazonには「大型本」って書いてありますけど、そんなに大きくないですね。ようはA5版です。厚さもそれほどでも。

中身はこんな感じです。
そう。縦書き、2段組。





この手の本で、縦書きってないでしょ。しかも、2段組なんて。
べつに奇を衒ったわけじゃなくて、前々から自分が書く文章って横書きより、縦書きの方が読みやすいだろうなと思ってたんです。2段組に関しては、ページ数と文字数、そして、価格の関係もあって、こうなったわけですけど。
初の単著が縦書き2段組で、384ページというのもめずらしいですよね。
でも、ユーザー中心のデザインについて、なぜそれが必要かということころと、具体的な実践の仕方に触れようとすれば、そのくらいのボリュームになっちゃったわけです。

実物が手元に届くと、不思議な感じですね。
自分が書いたものが本になったというよりも、やっぱりいろんな人の力で一冊の本ができあがったという感じがすごくします。

ここまでお世話になったソフトバンククリエイティブの編集の皆様、ありがとうございました。

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2008年05月27日

グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ/バーバラ・M・スタフォード

「去年、来てたあのワンピース。ほら、花柄のやつで・・・」といわれても、まったく思い出せないものでも、「ほら、あんな感じ」と指さされた実物のワンピースがあれば、それが実際にはほとんど似ていないということまで含めて思い出せたりする。百聞は一見に如かず、とは言うけれど、視覚の力はまさに直観を呼び覚まします。

これまでも「最初にパッと<映像がしっかり浮かばない>と」や「レオナルド・ダ・ヴィンチの絵のような緻密さで顧客のコンテキストを描く」なんてエントリーを書いてきましたけど、言葉で理解することと視覚的イメージで理解することはまるで違うことだと思っています。言葉の秩序には不可能な、領域を超えた秩序をいとも簡単に高速で感じさせることができる。計算ではどうにも解けないロジックを、視覚的イメージを扱える生物の脳は簡単に見抜いてしまいます。百聞は一見に如かずどころではなく、どんな膨大な計算でもかなわない直観を呼び覚ます力がイメージにはある。

元々、そういう考えがあったからでしょうか。
「電子の未来、知は片はしから曖昧になり教育は大混乱するだろうという声に抗って、イメージは良い形で介入することができることを示したい」とするバーバラ・M・スタフォードの『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』を、amazonがしきりに「これ買えよ」っておすすめするので騙されて、同著者の『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』といっしょに思わず買ってしまったのかもしれません。普段は「買えよ」と言われても買わないのだから、それなりに惹かれるものがあったわけですが、読み終えてみて、やっぱりこの本は買って良かったなと思いました。

イメージの復権と超分野

正直、読みやすい本ではありません。著者が「イメージの復権」を掲げて奮闘しているのはわかるのですが、その奮闘の様子をうまく捉えることがむずかしかった。でも、読み進むうちに、読みにくさは消えないまでも、著者の論点が徐々に理解できてきました。

本書は超分野の既に名のある、これから名を得ようとするイマジストたちに、イメージというもののイメージを再創造する根本的な仕事に取りかかれと呼びかけようとする。ただの消費ゲームだ、堕落だ、まやかしだ、倫理と無縁だと叫んで止まぬ大雑把そのものの支配的論法からグラフィックな表現を救えというのは、芸術、人文諸学、そしてもろもろの科学の境界を超えざるをえない課題であろう。
バーバラ・M・スタフォード『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』

著者は、この本で「イメージの復権」を示すのに18世紀の博物学、幻燈などの光学的投影装置、医学の分野における観相学や骨相学、そして、顕微鏡でとらえられた解剖されたカエルの中身や微生物などのイメージが、中世までのテキストの支配による分類の枠を大きく超え出て、超分野的に芸術・人文学・科学をつないでしまったことに焦点をあてています。
「ずっと学問の世界を動かしてきた言語中心的パラダイムを、人びとが使える総合された多元的なパターンをうみだす空間にデザインし直すことの積極面を敢えて表に出すことをもって結論としたい」という著者は、まさに膨大なテキスト情報によってこれまでなく微細に引き裂かれ、かつ、分野横断の共通言語を失って、息絶え絶えの「芸術、人文諸学、そしてもろもろの科学」をつなぐものとしてのイメージングの力の復権を訴えているのです。

コレクション、そして、コネクション

この本にはたくさんの図版が紹介されてはいますが、正直、18世紀の博物学といっても、僕たち日本人にはピンと来なかったりします。これが読みにくさの1つの要因になっているのかもしれません。

僕自身は以前、17世紀から20世紀初頭に到るフランス絵画界における美術カタログの歴史を探求した島本浣さんの『美術カタログ論 記録・記憶・言説』を読んでいたり、遠い昔、大学時代には澁澤龍彦さんの本を読み耽っていた時代もあったので、なんとなくイメージできましたが、そこで実際にも作られたし絵にも描かれた驚異博物室の「エキゾティックな動物、奇態な貝殻、面白い形をした石、珍しい花の絵」が並置された光景は、日本で言うなら伊藤若冲の「動植綵絵」や「樹花鳥獣図屏風」を彷彿とさせます(若冲もまさに共振するように18世紀の人です)。

バロックの驚異博物館、即ち特別な箱だの珍品満載の凹部だのを持つ記念物品用の魔の容器に典型を見る、人を呆然たらしめる諸物並置をなぞるかのように、このプラグマティックきわまる歴史再構成の形式は、同時代における範疇化の諸体系のいかに不確実、いかに穴だらけなものをあばきたてた。(中略)人工物か、天然物か、異教の物かキリスト教の物か、普通の物か異国の物かは問わず、ともかくそうした物どものは、見出す行為そのものがいかに偶然と雑然のわざくれであるかを即教えたわけである。精妙に三次元化されたこのさ寄物陳思のコラージュを眺めてみると、いかに我々の学習が断片を闇くもに集め、編集する骨折りによって成り立っているものかがはっきりしてくる。
バーバラ・M・スタフォード『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』

18世紀博物学の超分野的蒐集による三次元的コラージュが、現代のテキスト主体のグーグルの検索結果やSBMのホットエントリーとは異なるのは、コレクションされたものがコネクションを直観的に想起させる点でしょう。これはテキスト情報だけではどうにもならない。イメージの価値を見直す理由はここにあります。
著者はこの本の終わりで、イメージが起動するアナロジーにライプニッツ的な結合知(アルス・コンビナトリア!)を見てとりますが、それは集合知が問題にされる現在に情報社会での主要な論点とは明らかに異なるところを見ています。

イメージング新世紀へ

領域横断的に集めて並べることで、アナロジー的なつながりが直観的に想起される仕組み。

僕がこの本に惹かれたのは、そんないまと異なる情報システムの未来の方向性をこの本が指し示してくれるように感じたからです。
この方向性はちょっと追いかけてみたいので、続けていっしょに買った『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』もさっそく読み始めましたし、訳者の高山宏さんの本も2冊ほど入手したりしました。

最後にいくつか気になった点を未整理なまま、引用しておきましょう。

  • 芸術も人生同様、どっちつかずの世界が相手である。そうやって本来が測定不可能なものだということを弁えた倫理的美学をつくりださない限り、数とか言葉とかで云々できる精確さに欠けている、即ち腐敗のしるしとする見方がこれからも威張ってまかり通るだろう。
  • 想像的な再編集が必要とドーバントンが考えたのは、計算ずくで配された事物ばかりずっと見続けるのは知的に危うい事態に違いないからである。そうした余りにあからさまに構造化された条件下では見る人間の反応は、有無を言わせぬ全能の方法に予め統御されているだろう。システムというものは世界を探索し発見しようという目玉人間の好奇心を刺激しないし、事物そのものを研究してみたい欲望を鈍らせてしまう。
  • 要するにイメージというものは、情報を一度に小空間にディスプレーしながら、それをミニチュア化し、圧縮し、組み合わせる力を持っている訳である。
  • コンスタンツ大学の生物学教授であるフーベルト・マークルは"gene" "genus" "gender" "generation"そして"genius"といった語が共通の語源を持つことに注意を促している。人文寄りの生物科学の国際的スポークスマンたるマークルは、こうした語群を「命を与える現実の原理、あらゆる存在のgenuineな核」と結びつける。
  • ビジネスの世界で独立企業が次々潰れ、簡単な合併の経済で動くひと握りのグローバルな巨大連合企業ができていったのを考えてみればよい。多様な分野間の架橋、それこそまさしくデザインの問題なのであって、混成のイデオロギーが自動的にもたらした結果であったり、ましてや金がないという悲しい現実の行きつくところというのであってはならない。
  • それ以上還元不能な線ヴェクトル、対応する原色が、可触のコンテクストから抽象されて形づくるライプニッツ的組み合わせ術、というかベーシックな視覚言語から、さまざま発見されたり発明されたりしてコミュニケーションが引き出されてくるのだ。と同時に、これらのデザインは混沌の時代のアナーきーと苦患に直面した見る人間の心理状態を絵にとどめた歴史の記録であった。

先にも書いたとおり、読みにくい本ですが、「ゆゆしき人間中心設計者」あたりに書いたことにピンときた人はぜひ読まれることをおすすめします。



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2008年05月25日

はてなクラブという試みについて

はてなクラブがやろうとしているのは「ユーザビリティ」なんでしょうか。ここには「サービスの品質向上」と書いてあるので、ここを読む限りはやり方として問題はないと思いますが。

ユーザビリティテストのモニター組織とリクルーティング

aratako0さんもこう書いていますが、特に「ユーザビリティテスト」としての考えの甘さは、あの文面にはないと思います。

先日、はてなクラブの募集が開始されました(僕も申し込みました)。既にいろんな人たちがブクマコメントなどで突っ込んでいるのですが、ユーザビリティテストの考え方がちょっと甘いかなと思います。

そう思うのは、はてなクラブはまずテストの被験者を集めるためのモニター会員組織であると感じられること、テスト時には再度、被験者のスクリーニングが行われるのではないかと思えるからです。

これなら、aratako0さんのいう「重要なのはテスターのリクルーティング」も満たせると思います。そもそもモニター会員組織の母体にある程度、いろんな人がいないとスクリーニングしても、必要な被験者を見つけることはむずかしいですから。
母体は大きい方がスクリーニングで対象者を見つけるのには向いています。リサーチ会社でもモニター会員組織はできるだけ多くの人を集めようとします。そのほうがどんな条件でスクリーングをかけた場合でも対象者が見つかる可能性が高くなるからです。
ですのでモニター会員組織がさまざまなユーザー層をあいまいな形で取り込んでしまうことと、リクルート条件を明確に絞り込むこととは別です。ユーザビリティテストの被験者を実際にリクルートする際に適切なスクリーナで対象者を絞り込む作業は別途行うことなのですから。

その意味で、はてなクラブが「家族や友達も誘って」とするのは正しい姿勢だと思います。

インタビューについて

それから、インタビューに関して。これは、最初に書いたように、そもそもはてなクラブがやろうとしているのは、ユーザビリティの向上だけではなく、「サービスの品質向上」なのだということと関係しています。

ニールセンは、ユーティリティとユーザビリティを分けて捉え、それをユースフルネスという上位概念でまとめてますが、「サービスの品質向上」というのは、このユースフルネスのほうが近いのではないかと思います。まぁ、これはISO9241-11の定義をビッグ・ユーザビリティと捉えると割と近い考え方にも思えますが、ただ、ビジネス的観点からいくと「サービスの品質向上」という話とユーザビリティをイコールに考えるのはちょっと難しいだろうなとは思います。

ところでインタビューなんですが、もちろんコンテキストインタビューという方法はあります。でも、だからといって通常のインタビューが意味がないという話ではありません。

また、id:jkondoの日記ではインタビューをすることによって実態調査を行っているとありますが、この方法も最善かと言われるとちょっと疑問です。インタビューはインタビューされる人が自分で言語化できることしか答えられないので、言語化できない自分のニーズを伝えることができないのです。

最善ではないにせよ、経営者自らがこうしてインタビューを行うのは「善」ではないでしょうか。少なくとも、インタビューを行うことで、自分たちがこれまで想定していなかった使い方をしているユーザーがいろいろといそうだという目安になります。そこがスタートです。そのことをまず自分自身が知ることが何より大事だと僕は思います。

それにコンテキストインタビューなら、言語化できないニーズを把握できるかといえばそうでもありません。もちろん、現時点で最善の方法の1つではあるので、できる限り、コンテキストインタビューやフィールドワークの手法を使ったほうがいいでしょう。それによってユーザーの行動とそのコンテキストはかなり理解できます。ただし、「かなり理解できる」場合でも、それは全体(そんなものあるのか?)からすればそれでもごく一部です。

まず、コンテキストインタビューだけではユーザーの思考過程や思考のクセというものはわかりません。ネット・サービスだとこのへんがわからないとツライ部分もあります。その際は評価グリッド法などを同時に用いることも必要でしょう。

あとビジネス的な視点で、サービス品質向上をうたうとなれば、ターゲットユーザー層をどう考えるかという点と絡めて、行動調査や評価グリッド法などの調査から見えてきたユーザーセグメントの各層が実際に世の中にどの程度の比率で存在するかを把握するための定量調査も必要になってくる場合もあるでしょう。

実践することから学べばいいと思う

こうやって考えると、いろいろやらなきゃいけないことは増えてくると思うんです。でもね、大事なことは、はてなが実際にユーザーが実際にどんな風にサービスを使うのかを調べようとしたり、開発中のサービスをユーザビリティテストにかけようとしたりする方向に、実際に歩みだしたことじゃないでしょうか?
そりゃ、ベストな方法なんて考えれば、いくらでも出てきます。でも、最初の一歩すら踏み出してない会社、踏み出すことすら「意味がない」と否定する会社に比べれば、かなりまともだと僕は感じました。

それにユーザー中心デザインにしても、実践してみないとわからない部分が当然あります。はてなが自分たちでテストなりインタビューなりを実践してみることで、徐々に最適な方向に進むということもあるのではないかと感じました。
それに実際のところは具体的な実践のなかの失敗からしか学べないと僕は思います。ユーザーの体験を追体験することからデザインをはじめようとするのですから、まず何よりは自分たちが体験しないことにははじまりません。そこにはてなが積極的に踏み出そうとするのですから、お手並み拝見という感じで応援するくらいでいいんじゃないでしょうか。

IDEOのデザインプロセス、再び。」で書いたのとおなじことかもしれませんが、理解・観察からはじまるユーザー中心のデザインがごくごく当たり前のデザインプロセスとして浸透していくのはよいことだと思いますし。はてながその先陣を切って進もうとしているのなら僕は応援したいですね。

  

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2008年05月24日

はてなクラブとユーザビリティテスト

はてなクラブがユーザビリティのための品質向上を目指すのであれば、もっと対象ユーザを絞り込むべきだと思います。

ユーザビリティテストの肝

先日、はてなクラブの募集が開始されました(僕も申し込みました)。既にいろんな人たちがブクマコメントなどで突っ込んでいるのですが、ユーザビリティテストの考え方がちょっと甘いかなと思います。

今までのid:jkondoの発言から、はてなはキャズム越えを狙い、YouTubeやmixiのように一般ユーザが使うようなWebサービスになろうとしているのだと思います。そうすると、今一番意見を求めなければならないのははてなを使っていないユーザです(ユーザにとっての既存サービスの改善のためのユーザビリティテストであれば、ユーザを対象とするユーザビリティテストは合っているのですが)。

ユーザビリティテストを行う上で重要なのはテスターのリクルーティングだと思います。はてなクラブの募集のページでは、「家族や友達も誘って」と書いていますが、そんな曖昧でいいのでしょうか。

男性・女性向け、年齢、ネットの使用歴、職業などさまざま要因が折り重なって、その対象がユーザになり得るかどうかが決まります。たまたま偶然来たユーザ(そもそもターゲットではないかもしれない)の意見を取り入れてしまって、デザインが悪い方向に転がってしまう可能性は否定できません。

インタビューは正しいか?

また、id:jkondoの日記ではインタビューをすることによって実態調査を行っているとありますが、この方法も最善かと言われるとちょっと疑問です。インタビューはインタビューされる人が自分で言語化できることしか答えられないので、言語化できない自分のニーズを伝えることができないのです。

そのための方法としてコンテキストインタビューなどの方法があります。これは普通にネットを使っている人がどんな使い方をしているのかを理解する目安になります。

はてなは技術屋の会社なんだろうけど、デザインも技術だし、デザインこそユーザの心を掴むものだと思います(Googleにしろ、37signalsにしろ)。だから、もう少しユーザビリティには力を入れてもよいんじゃないですかね。

2008年05月23日

とりあえず絵を描きながら話そうよ

会議である課題について議論するときって、参加者それぞれで異なる思いがあるから、よほど司会者=モデレータがしっかりしてないと話はあちこちにブレがちです。

せめて参加者の発言の要点をホワイトボードやプロジェクターにつながったパソコンなりで、みんなに見えるように記録をしていけばいいのですけど、それをしない会議が意外と多いんですね。でも、それだと会議が絶対に非効率になります。

その場で全員に見える形で発言の要点の記録をやらないと、やっぱりいまの文字文化の人には前に別の人が言ったことを忘れてしまったりします。それだと、話がどんどん拡散していくのは避けられません。
目に見える形で書いて整理すれば、簡単にまとまる話ですら、まとまるまでに時間がかかって非効率になります。ましてや、議題がちょっと複雑だったり、いろいろ考えなきゃ答えが出ないようなものだと手に負えない状況にもなります。

長い時間かけて会議をして、個々にはそれなりに良い発言があっても、それらがすべて雲散霧消してしまい、結局、何の結論にもいたらず、この数時間はいったい何だったんだろうという不幸な結果にもなりかねません。これはいけません。その内容がコスト削減のための業務効率化だったりしたら本当に目も当てられませんよ。だったら、この会議からまずどうにかしようよって話です。

会議の記録も情報デザイン

とはいえ、参加者の話を方向づける司会者=モデレーターと、記録係を兼ねるのはよほど他人の話の要点をつかむのがうまい人じゃないとむずかしい。やっぱり司会者と記録係は別々に置いたほうがいいのだろうと思います。

で、その記録係もただ参加者の発言をそのまま記録してればいいってわけじゃないんですよね。前に「判断力は情報デザイン力、物語化の能力」ってエントリーを書きましたが、会議の記録もまた情報デザイン的性質をもってるんだと考えます。いかに参加者の発言をカテゴライズ、階層構造化して、発言間の関係性・構造をわかりやすく可視化するかという力が求められます。記録者の情報デザイン力如何では、会議が創造的な場となるかどうかも決まってくると思います。

図を描くことで、一歩上の記録を

ところで、参加者の発言の要点を箇条書きのような形で記録するのは最低限のことです。

もう一歩先を行くなら、記録しながら個々の話の内容を分類・整理しながら、絵を描いていくことができればもっとよいと思います。絵っていってもイラストみたいなものじゃなくて、図でいいんです。発言間の見えない関係性を図で可視化できれば、口頭だけでは気づかなかったものが見えてきて、図上の関係性の軸から最初は想像もしなかったエリアに新しいものが見えてくることだってあります。

極端な場合、ホワイトボードに描いた図上で、問題の解決法がデザインできちゃう場合だってありますよ。デザインできちゃうというと言いすぎかもしれないけど、ベースとなるラフデザインは本当にできちゃいます。そこまでいければ会議というよりワークショップですね。協働作業の場です。

互いに図で話す打ち合わせ

と、ここまで書きながら思い出したけど、転職前って2、3人の少人数での打ち合わせだとそれぞれがA4の裏紙もっていて、おたがい相手の話や自分の考えをそれぞれ図にしてメモったりしてましたね。
相手に何か自分の考えを伝えるときも口で全部言うんじゃなくてササっと図にして「こうじゃない?」とか訊いたりしてました

あの打ち合わせ形式は効率的だったし、話がブレないのでアイデアを深いところまで落とし込めてましたね。扱ってたものが平面だっただけに、粘土とかダンボールを使ってやるフォームブレストにまでは発展しなかったのですが、それでも絵をたがいに描いて見せあうことで、言葉だけの打ち合わせよりもずいぶんと具体的で有益な話ができていたと思います。

また、あのスタイルの打ち合わせができるようにならないとダメだなって思いました。やっぱりみんなで手を動かしながら考えるという図と言葉の両方をつかった思考法・会議法を徹底していく必要がありますね。

そうしないと意見もネガティブで無駄なものばかりになっちゃうってこともあります。文字や図にしちゃえば、それほどネガティブなものって出てこないですから。

それには絵で考えられる思考力をまわりの人にも身につけてもらわないといけませんね。

 

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