携帯電話番号ポータビリティが始まり新聞・ニュースでもよく見かけます。
携帯電話。僕らの子供の頃はその陰すらありません。
今や小学生までまさしく携帯。メールやインターネットも利用できる。
普通電話。 今ではすっかり見かけなくなった黒電話。ダイアル式。
どこの家庭でも外部との唯一の通信手段でした。
黒電話の上の壁には親戚、病院、親の友人・知人・会社の関係者、自分の・兄弟の友達の家の番号、学校の連絡網、・・・・・、
我が鈴木家の交流関係が一目でわかるように見事に表となった電話帖が張り出されていました。
家族内では個人情報もへったくれもありません。
それも玄関入ってすぐの棚に、しゃけを咥えている熊の木彫りの横に、黒電話は鎮座。
カバーがかけてあったりまさしく威風堂々と‘鎮座,
その上にご丁寧に表となっている電話帖です。
訪れる人に家族情報丸見え、いや見せつけていたかのように。
友達の家に行っても似たようなもんでした。
玄関を入ってその家の独特の匂いを吸い込み
「この家の匂いは少し嫌だな。何かウスラ魚臭い。タイプじゃないな」あるいは「これか?ブルジョアの匂いってのは」なんて思う間もなく、その家の匂いに慣れる間もなく、目の前にはやっぱり黒電話が鎮座です。
レースのカバーがかけてある黒電話が鎮座です。思わず手を合わせてしまうこともしばしば。
電話器というものがどこの家庭も圧倒的な存在を華っていました。
当時の最先端、薄い緑色のプッシュ電話なんて置いてある家に遭遇した時は、その上品な佇まいにしばらく声を失ったもんです。そいつのお母さんが、これまでになくなぜか綺麗に見えました。
アレクサンダー・グラハム・ベルに感謝。
さて携帯電話。
僕ももちろん持っています、使っています、メインの通信手段です。
これがないと生きていけない! とは言いませんが財布と共に常備している生活必需品、今やマストアイテムです。
で、何を書きたかったかというと
最近の無間地獄のような少年・少女の悲しいニュース。
電話の在りかた、位置づけ、利用方法が僕らの子供の頃と全く変わっているのもその要因の小さな一つにあるのかなぁ? ふと思いました。
電話は人間が発明した多くの物の中で、生活に最も貢献している物のひとつだと思います。
離れた場所でも声を通じてお互いの感情を、会話を通して時間を、常に共有することができる。
素敵な物に変わりはありません。
結局、落書きのようになりました。
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