出羽酒田(山形県酒田市)の豪商。日本一の大地主。

享保17年(1732)12月25日−享和元年(1801)6月1日 69歳

酒田本間家の三代目当主。酒田本間家二代光寿の三男。

「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と謳われ、日本一の大地主となった本間家の基礎を築く。

「救荒の父」。


19歳のとき、姫路の豪商・奈良屋権兵衛に見習い奉公にでた。

22歳で酒田に帰り、父の死により本間家三代目当主となる。

父は晩年病弱で、経営を末弟の宗久に任せていた。宗久は幼少時より神童の誉れ高く、商才にたけ、とくに米相場に関しては「相場の神様」と称されたほどであるから、家業を広め、一説によると本間家の財を大きくしたのは宗久だともいわれる。
しかし、光丘は「大名貸し・米相場は危険」であるとし、叔父宗久と義絶。約30年後にようやく和解をした。

光丘は、叔父宗久のやり方を危険としたが、自身も庄内藩をはじめとする諸藩への大名貸しなど莫大な貸金等で蓄財を重ねていった。

一代50年間で全国屈指の大地主に成長し、名門本間家の基礎を築いた。


本間家には、財政難に陥った東北諸藩から財政支援の要請があり、大名家へ資金援助を行っている。光丘のやり方は、ただ儲けるために貸すのではなく、財政再建の助言をしながら大名貸しを行うというやり方である。

米澤藩の上杉鷹山からの要請も受け、米沢藩の窮乏を救っている。江戸時代一の名君といわれる上杉鷹山の藩政改革を成功させた功労者も本間光丘であった。


1783年、江戸時代最大の天明の大飢饉では、光丘は備蓄米として2万4千俵を放出した。そのお陰で庄内では一人の餓死者も出さなかったという。また、光丘は小作へは相場の半値の五分の利で貸し、小作から搾り取るようなことは一切しなかった。これほどの大地主でありながら、小作、農民は一度も一揆、騒動を起こさなかったという。従って農民は、取立ての厳しい殿様に年貢を納めるより本間様の小作になった方が良いと言ったという。

「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と謳われた所以である。


また、光丘の代には私財を投じて最上川の治水、酒田西浜の防砂林の植樹、酒田港口の灯台の建立などを行った。

当時の酒田海岸は木が一本も植えられていない砂丘で、風が吹くと家や田畑が埋もれるほどであったという。そこで、光丘は私財を投じた植林計画を実施する。しかし、当初、黒松の苗木はなかなか根付かず、根こそぎ吹き飛ばされたりしたが、事業着手から4年後の宝暦12年(1762)にようやく実を結び始め、その後、自ら植林に取り組む人も現れ、現在の見事な黒松林を形成するに至ったといわれている。


本間家旧本邸(山形県酒田市二番町12−13)

本間美術館(山形県酒田市御成町7-7)

光丘文庫(山形県酒田市日吉町2)

光丘神社(山形県酒田市日吉町一丁目地内)

本間光丘・一族墓所(浄福寺・山形県酒田市中央西町4)


本間光丘―人を活かし金を活かす本間流ビジネスマインド
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江戸の財政再建―恩田木工・上杉鷹山ほか20人の改革者たち (中公文庫)
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「本間さま」の経済再生の法則-欲を捨てよ、利益はおのずとついてくる
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