熊本県上益城郡津森村杉堂(熊本市本山町)生まれ。

天保4年(1833)4月24日-大正14年(1925)6月16日 93歳

女性運動家、女子教育者。


熊本の総庄屋の家に生まれる。
横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校をつくった竹崎順子、横井小楠の高弟・徳富一敬と結婚し、徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生んだ徳富久子、横井小楠の後妻となった横井つせ、らは姉である。

25歳で隣村の武家の後妻となり一男一女をもうけるが、夫の酒乱に苦しみ35歳のとき離婚する。

明治5年(1872)、40歳のとき兄の看病のため上京。
40歳にして小学校教員伝習所に学び、1年後に教師となる。

明治9年(1876)、キリスト教伝道師ツルー夫人が日本人の女教師を探しているのを聞き、直接会見し、新栄女学校教師となる。翌年、キリスト教に入信した。
4年後に校長、続いて桜井女学校校長となり、明治22年(1889)桜井女学校、新栄女学校が合併して女子学院となり院長に就任した。

大正3年(1914)に80歳で退職するまでの40年間女子教育に尽力した。

当時は、良妻賢母主義が主流で、厳しい規則で生徒をしばったが、楫子の教育方針は、生徒の人格を認め、規則は不要、聖書を示して「自分で自分を治めなさい」というものであった。

夫の酒乱に苦しむ自分と同じような苦しみをもった女性を救おうと明治19年(1886)、「禁酒、廃娼、平和」を掲げて日本で最初の女性団体「東京婦人矯風会」を組織し会長となる。さたに明治26年(1893)、60歳で日本キリスト教婦人矯風会会頭となる。

一夫一婦制、公娼制度の廃止、女性参政権などを訴え、運動した。
娼婦を廃業した女性のための慈愛館の建設や乳幼児保護、鉱毒地の救済などの活動にも取り組んだ。

また、74歳ではじめて渡米し、89歳でワシントン軍縮会議に出席するなど国際平和にも尽くした。


四賢婦人記念館(旧矢嶋家)  熊本県上益城郡益城町上陳436

矢嶋楫子墓所(多磨霊園・東京都府中市)


われ弱ければ―矢嶋楫子伝 (小学館文庫)
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