関寛斎(せき かんさい)・徳島の偉人
上総国山辺郡中村(千葉県東金市東中)の農家の子として生まれる。
文政13年(1830)2月18日−大正元年(1912)10月15日 82歳
幕末から明治時代の蘭方医。徳島藩医から町医者、開拓の父へ。
4歳のとき母と死別。14歳で儒学者関俊輔の養子となる。
18歳で佐倉順天堂に入門し、佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時、銚子で開業。
豪商・濱口梧陵の支援で長崎に遊学、医学伝習所でオランダ人医師ポンペに最新の医学を学んだ。
語学の天才であった司馬凌海と友人となり、二人で医学伝習所の充実や小島に養生所を建設することに尽力した。また、ポンペの講義の整理をし、『朋百氏治療記事』『ポンペ議事筆記』などの貴重な資料も残した。
寛斎校閲、司馬凌海著の『七新薬』三巻は当時のベストセラーとなり、寛斎と凌海の名は全国に知られるようになった。
1年1ヶ月の留学期間を終え、文久2年(1862)1月銚子へ帰った。
こののち文久3年(1863)、徳島藩蜂須賀家の侍医となり徳島へ渡る。以降約40年間、徳島で活躍する。
戊辰戦争時には官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当る。これは赤十字精神の先駆とされ、その業績は西郷隆盛からも高く評価された。
海軍省勤務・山梨病院長を経て徳島に帰り、明治6年禄籍を返上して一町医者として開業した。開業後も多数の官職への就職の話があったが一切うけつけなかった。
また、金を持っているものからは多く、貧しい人は無料で診察を行ったという。明治27年3月の1ヶ月だけで無料の種痘を行った数千二百余人であったという。
生活は質素で、妻あいの手織の木綿の着物で一生を過ごしたという。そのため貧しい患者たちからは「関大明神」と慕われる。
明治35年(1902)、72歳にして一念発起し、原野だった北海道十勝国中川郡本別村(足寄郡陸別町)での開拓事業に全財産を投入し、広大な関牧場を拓く。
徳富蘆花を通してトルストイ主義に近づき、この土地を開放し、自作農創設を志すが、家族との対立などによりそれを果たせず、大正元年(1912)82歳にして服毒により自らの命を絶つ。
「軍医総監男爵は造作もない」と徳富蘆花を嘆かせた寛斎は、自己の栄達を望まず、一介の町医として「医は仁術」に徹した。
寛斎を陸別の地まで訪ねた蘆花は、その著『みみずのたはこと』(岩波文庫版)に関寛斎の一章を設け、その人柄を偲んだ。
みみずのたはこと 上 (岩波文庫 緑 15-5)

司馬遼太郎は大著『胡蝶の夢』(新潮社)で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評している。
胡蝶の夢〈第1巻〉 (新潮文庫)

72歳からの寛斎の活躍は城山三郎『人生余熱あり』で紹介され、多くの人びとの胸を打った。
人生余熱あり (知恵の森文庫)

彼が拓いた陸別町では、関神社を祀るなど町の開祖として顕彰されている。
関寛斎が学んだ学塾「製錦堂」跡地前案内板(千葉県東金市前之内地区)
関寛顕彰碑(千葉県東金市)
関寛斎銅像(千葉県東金市・東金中央公園)
関寛斎邸宅跡・「慈愛・進取の碑」(徳島県徳島市・城東高校敷地内)
関寛斎石像(徳島市中徳島町、城東高校北東・徳住橋西側)
関神社(北海道足寄郡陸別町青龍山)
関寛翁建碑(関神社前・北海道足寄郡陸別町青龍山)
陸別町関寛斎資料館(北海道足寄郡陸別町字陸別原野基線69)
斗満(トマム)の河―関寛斎伝

彩雲―関寛斎と海部花

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