留岡幸助(とめおか・こうすけ)・岡山/北海道の偉人
備中国上房郡松山(岡山県高梁市)生まれ。
元治元年(1864)3月4日‐昭和9年(1934)2月5日 71歳
日本の社会福祉事業・教化事業の先覚者で、「感化事業の父」「少年の父」と称される。
感化院(現児童自立支援施設)教育実践家、北海道家庭学校の創始者として知られる。
石井十次、アリス・ペティ・アダムス、山室軍平とともに「岡山四聖人」とも呼ばれる。
備中国上房郡松山(岡山県高梁市)に生まれた。
父は吉田万吉、母はトメであったが、まもなく留岡金助の養子となった。
生来反骨、気概の風があり、神の前には人すべて平等の教えに深く共感し19歳で洗礼を受けた。
留岡幸助と備中高梁
幸助は明治5年から1年間、新町の寺子屋へ通ったが、そこには士族の子どもも町人の子どもも一緒に学んでいた。ある日何でもないことから士族の子と口論から喧嘩となり、木刀でひどくなぐられた。すでに徳川幕藩体制が崩壊し明治新体制が建設されつつあり、四民平等の理念が説かれていたものの、いまだ建前だけで実際には士族と町人との間には厳格な差別が存在していた。士族の子どもは腰に木刀を差しているのに対し、町人の子どもは丸腰であった。口論のあげく幸助は士族の子どもから木刀でさんざん撲りつけられた。しかし勝気の幸助は撲りつけた子どもの右の手を両手で引きよせて手首に喰いついたのである。士族の子は痛い痛いと叫んで泣いて家に帰った。町人の息子が勝ったというので、子どもたちは喊声をあげた。幸助は士族の子どもと喧嘩したことを家人に話さなかったが、これが留岡家にとって大事件となった。
翌朝幸助の父は士族屋敷に呼び出され、士族の父親から、お前の子どもが自分の息子にかみついて傷を負わせたこと知っているのか、とひどく叱責された上に、今日限りで出入を差し留めると言い渡されたのである。留岡家は白米商を営んでいたから、得意先を失うことは大きな痛手であった。憤懣やるかたない父は幸肋をひどく打ち据えた。しかしこれは幸助にはどうしても納得いかない処置であった。
留岡幸助―自叙/家庭学校 (人間の記録 (82))同志社の神学科に入り新島襄らの信仰・思想に触れ、キリスト者として丹波地方で伝道にたずさわった。
非常に口惜しい。私もキリスト教を信じます以前は、むかッ腹を立てる癖がありました。この事件は私の8歳の時でありましたが、肩が何度も上がるほど腹が立ってどうしても自分の口借しさを押さえることが出来ません。子供には子供の理窟がありましてどうにも私が悪いとは思われない。悪くない自分を木刀で撲るからやむを得ず喰い付いたのだ、それだのにおやじが呼び出されて叱られ、その上米が売れなくなり、しかのみならず、私がまたもや散々撲られたということはどうしても道理が立たない。一体この世の中はどうなっているんだい。
こういう感じを抱いたのであります。それ以来私は士族という奴は悪い奴だと思い込むようになりました。これはもちろん子供心のことで、良い士族もたくさんあった事はいうまでもありません。しかし私はこの事以後大分永い間士族というものは悪いもの、町人を虐めるものという風な印象を持ち続けました。
監獄改良の働き手として北海道の空知集治監の教誨師として働き獄制改革についての実践をかさねた。
一路白頭ニ到ル―留岡幸助の生涯(岩波新書)犯罪者とその幼少年期の関連にも着目し、少年感化への志を抱いて渡米研鑽を績んだ。
「希望」について
・・・彼は千人余の囚人を前にして説教を行った。演題は「希望」である。
「今や世界の人口は十四億にも達しました。この大勢の人の一人一人には、それぞれの希望があります。人間に脊髄があるように、希望があればこそしゃんとして直立することができるのです。また時として希望は達磨さんのようなものです。百回失敗して転んでも、これがあれば必ず起き上がることができます。達磨さんは別の名を不倒翁といいます。ゆえに私はいいます。希望は不倒翁のごとし、と。そして、またいいます。希望はうんと高いところにおきながら事業は最も低い所から始めなければならないと」
留岡幸助―自叙/家庭学校 (人間の記録 (82))明治32年(1899)東京巣鴨の地に家庭学校を創設した。少年教護についての開拓的な拠点ともいうべきものであった。
私はなぜ感化事業に身を投じたか
私が、感化事業の計画を立てるようになったそのクレードルとでもいうべき所は確かに空知集治監であった。それならなぜ私が空知集治監へ来るようになったかといえば、神の摂理である。私は同志社の書生時代に早くも監獄改良に志を持つようになり遂に一生をこの事業に献げたい決心を築いたのであった。しかもこの決意は、私を血気時代の危険から救い給いし神への御礼奉公にこれが私に一番適していると考えたからであった。かくて私は神学校を卒えて、丹波地方に伝道をしていたが、先輩の勧めに従って空知へ勤務することになった。このことは、今から考えてみて決して偶然ではないと思う。私はここの集治監に勤務すること4年に及びその間多数の囚人に接触して教誨の任に当たっている傍ら、彼等の犯罪原因を詳細に調査したことに拠って、地上から犯罪を取り除くためには、彼等の幼少年時代から適当な処遇法を講じなけれぱならぬ事を一層深く痛感するに至ったのである。
霊南坂教会牧師、警察監獄学校教授、のちに内務省嘱託などを歴任してわが国の慈善事業−感化救済事業における学術・実践面をあわせての多面的な活動を行なった。
福祉実践にかけた先駆者たち―留岡幸助と大原孫三郎活動の範囲はきわめて多岐にわたり、少年感化に始まって、監獄改良、地方改良事業、特に同和問題にも深い関心と発言を続けた。
幸助の実践は、問題意識に基づいた経験と調査、そして欧米の歴史、動向などの学術的ベースも備えた上でのものであった。「経験は学理によりて標準を示され、学理は経験によりて其説を確かめ両々相並んで初めて完全の域に進達すべし」という見解どおりに幸助は、感化事業の実践において学術も重視した。そして、幸肋は、・・・宗教による愛に学術が加わった学術的慈善事業を唱えたのであった。
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幸助は、「学問は人の信ずるほど力のあるものではない。……事業を遣る上には学問はあまり役に立たぬ。斯く云へばとて、決して学問を軽んずるのではないが、学問は要するに補助機関である」との見解も示したように、旧態の慈善を進歩させるものとしての学術は評価したものの、実践に勝るものではないと考えていた。そして、慈善事業の実践については「事務的才能に富まざる可らず、慈善は一種の大事業たれば唯其れ『御人善』にては為す能はず」と、道徳的要素のみならず、事務的才能も必須であることを幸助は説いていた。
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幸助の感化事業遂行の目的の中には、社会防衛や国益志向というような国家主義的見解も含まれていた。また、家庭学校にも、国家を感じさせる側面があった。皇室から下賜金を度々獲得したこと、新年の祝賀会で勅語奉読が行われたこと、及び年間行事リストに、キリスト教的行事と共に天長節や紀元節、皇霊祭などが含まれていたことなどである。
このように、キリスト者、幸助には国家主義的なものが根底に存在した。幸助は、幼少期、そしてキリスト教徒になった後の今治時代にも漢学の修養を行っており、それらの素養は、キリスト教を信仰するようになった後も否定されないまま幸助の中に温存されていたと想像される。それが幸助の国家主義的特徴の大きな一因であろう。
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幸助の国家主義的要素には、彼にキリスト教の影響を与えた人々の影響もあろと考えられる。明治期のキリスト教徒は、維新後に生活環境が一転してしまった元武士階級の者がほとんどであった。これら武士階級出身のキリスト者達は、培われていた儒学的素養の上にキリスト教を受容した。幸助が最初に接したキリスト者である金森通倫や横井時雄などという「熊本バンド」のキリスト教徒達も愛国志士的な側面を持った人々だった。そのため、幸助は儒教の治国平天下の思想と重ねあわせた志士的なキリスト教を受容したものと思われる。キリスト者の内村鑑三が教育勅語への最敬礼を拒んで不敬と非難されたこと、同じくキリスト者の片山潜がセツルメント運動から次第に社会主義運動へと傾倒していったこととは対照的に、幸助は、国家主義的な素養の強い名残りによって、キリスト教を信仰しながらも同時に国家主義的な見地にたった体制内での改良を模索し続けていったのであった。
彼の主筆による『人道』を定期的に発刊(明治38年)し、多彩な交友による執筆者を得て社会問題の論壇の態ともなった。
「人道」の称には二宮尊徳による報徳思想による教化への彼の傾倒が示されている。
大正3年(1914)には北海道家庭学校を設立し大自然の只中での少年教護の場を創出し今日に至っている。
人物でよむ近代日本社会福祉のあゆみ
留岡は1914(大正3)年に北海道の社名淵という所に「感化牧場と新農村」すなわち家庭学校社名淵分校を創設する。現在の北海道家庭学校であるが、この計画は感化農場、あるいは、新農村という構想をもち・・・
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このとき、留岡は50歳であったが、広大な原始林を生徒たちと一緒に拓いていくことになる。この様子は後に『自然と児童の教養』(1924)として上梓され、「元来教育は自然と人間との協同事業として成立つものである」と論じられているように、自然と人間、自然と教育の本質的な課題の提起でもあった。
社名淵の地には、徳富蘇峰や牧野英一ら多くの著名な人たちが訪れている。 99匹の羊より「一匹の迷える羊」を大切にしたその事業は、留岡の言うごとく100年200年のスパンで事業を完遂していく構想であった。留岡の広大な構想と思念とは裏腹に、農場の経営は順調に進んでいったとは言いがたかったけれども、現在、周知のようにそれは北海道家庭学校として受け継がれている。
一路白頭ニ到ル―留岡幸助の生涯(岩波新書)山室軍平らとともに大正中期以降の内務省の社会事業・救済行政への民間人としての参加・提言も注目される。講演と多数の著作による啓蒙、啓発者としても独自の役割を担った。
三能主義
社名淵の地に家庭学校農場ができてからそろそろ1年を迎えようとする大正4年6月10日、留岡はキャンパス内の庵にこもって、執筆に余念がなかった。
書くべきことは、もう煮つまってきている。それを一気に紙に向かって吐き出すのだ。これまでの経験から、言いたいことは三つに尽きる。頭のなかがまとまっているから、その書き出しは、きわめて簡にして要を得たものになった。
「吾人が多年実験し来りし感化教育は、少年をして能く働かしむると共に、能く食はせ、而して亦能く眠らしむるにありき。この三要件は常に少年を教育するに於て必要なるのみならず、凡ての人類を教育するに於ても、亦誠に必要欠く可からざるものなり」これは、おそらく留岡宣言といってもいい文書である。
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彼は、そのとき都市文明に大いなる疑問を抱いていた。全文を書き終えてから、彼は原稿の第一枚目に『三能主義』というタイトルを書き込んだ。三能主義は、自然に親しみ、自然に学ぶことを重視する教育でもある。
「土を尊べ」と彼はいった。巨費を投じて礼拝堂を建てたのは、腐敗した魂を浄めるためである。それと同じように、土には腐敗した物質を浄める霊妙な力がある。現代風にいえぱ、生態系のサイクルが断ち切られれば、自然は荒廃し、人間は不健康になり、退廃する。
一定の秩序をもって運行する自然は絶妙な設計を秘めており、しかも治療的、恢復的な作用をもっている。彼が北海道の大自然のなかで生徒を育てようとするのは、自然こそ最大の教師と考えるからである。いわく。
「吾人は拝金主義を去て、拝土主義に赴かねばならぬ」
『留岡幸助日記』全5巻および『留岡幸助著作集』全5巻がある。(『日本近現代人名辞典』)
留岡幸助先生顕彰碑(高梁中央公園・岡山県高梁市向町21)
東京家庭学校(「巣鴨家庭学校」の後身・東京都杉並区高井戸東2-3-4))
北海道家庭学校(北海道紋別郡遠軽町留岡34)
留岡幸助胸像、平和山記念碑、留岡幸助先生頌徳碑(北海道家庭学校)
映画「大地の詩」―留岡幸助物語―ウェブサイト
留岡幸助墓所(多磨霊園・東京都府中市多磨町)
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