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成田雲竹(なりた・うんちく)・青森の偉人
青森県西津軽郡森田村月見野十三番地(青森県つがる市森田町)生まれ。
明治22年(1888)1月15日‐昭和49(1974)5月22日 86歳
民謡歌手。
津軽三味線の高橋竹山と出会い、「津軽謙良節」「ホーハイ節」などの津軽民謡を全国に広め「津軽民謡の父」「津軽民謡の神様」と称される。
本名、成田武蔵(たけぞう)。
幼いころから美声で知られ、津軽民謡の名手といわれた。
18歳のとき家を飛び出し、鉄道の掃除夫、電信工夫、警察官と職を転々、その間「追分」の名人佐々木冬玉に師事した。
大正6年(1917)札幌劇場の興行を機会に独立、成田雲竹移動民謡道場を開設して民謡界に入った。
大正14年(1925)JOAK(NHK東京)開局に招かれて民謡を放送。
その後、南洋諸島、台湾、満州などを行脚して津軽民謡の普及につとめるとともに、自ら「ワイハ節」を作詩作曲した。
津軽民謡草創期の人びと―旅芸人の歴史と秘話を訪ねて昭和16年(1941)津軽三味線の高橋竹山と出会い、以後、師弟コンビを組んで「鯵ケ沢甚句」「津軽音頭」など津軽民謡のほとんどを編曲して世に送り出した。
津軽民謡の始まりは、明治時代からといわれている。嘉瀬の桃(黒川桃太郎、明治19年生)初代津軽家すわ子(坂本スワ、明治21年生)等の出現によって津軽民謡は世にでた。
浪曲界の大御所桃中軒雲エ門から、吉田奈良丸(浮かれ節)が流行り出し、俗曲から民謡という名の変革期であった。初期の津軽民謡一座座長の多くは、女性でしめられていた。初代津軽家すわ子は、津軽民謡一座の祖と慕われた鳴海梶之助と同居のもと、興行として津軽家演芸団を結成した。
他方で、日蓄レコードでは津軽民謡初のレコード歌手・小野イチコが一座を結成した。また、美人歌手として誉れ高い工藤美栄子(陸奥家美栄子)が一座を編成するなど、演芸団が続々と誕生した。同時に、男性では成田武蔵(雲竹)が巡査をやめ、精力的に民謡活動を姶めたのも此の頃である。唄い手でもある妻(ヨネ)の協力で民謡発掘と編曲につとめ、大衆娯楽の大座をほしいままにした。
一方、放送でも活躍、ラジオ青森(青森放送)の「民謡教室」は15年間続いた。
乞食唄と蔑視された津軽民謡を発掘し全国に歌い広めた功績と門弟の指導に果たした役割は大きい。
民謡のふるさと―北海道・東北(カラーブックス〈540〉)昭和44年(1969)日本民謡協会から「名人位」の称号を受く。
津軽民謡の向上
掛小屋で木戸銭をとって始めたのは、北津軽郡飯詰村のスワ子(のちの津軽家すわ子)と下繁田のイヨ子、広船のトラ子で、それは意外に新しく、明治36年の正月だったと成田雲竹は記憶している。それから掛小屋式の興業が盛んになった。木戸口の外で、「越後甚句(今日の津軽ばやし)」で傘踊り(現在は津軽アイヤ節の踊りになっている)を演じ、客を集めたところで木戸内へ誘い入れる。入れば「じょんがら節」の競演である。あとは「津軽よされ節」と「津軽オハラ節」、さらに「数え唄」から手品、萬歳などの色ものに手踊り。うっとりさせる芸が「津軽三下り」だった。
この津軽の浪花節的興業を嫌い、坊さまやホイドの生活を嫌う人がいた。あんなにはなりたくない。その一念で、津軽民謡の質の向上と品位の向上を図ったのが、成田武蔵、のちの成田雲竹である。
・・・
その成田雲竹は西津軽郡森田村月見野十三番地で、明治21年1月15日に生まれている。頑固が着物を着たようなこの人は、曲がったことは大嫌い、人におもねるのも駄目。それでいて郷土津軽を背負って立っているような人だった。だから酒席に招かれると、歌わずに帰ってきてしまった。そんなだから「津軽三つもの」を歌っても、アクがなく面白昧はなかった。いってみれば芸は別にして、当人はプロではなくアマチュアだったのである。だからこそのちになって「津軽三つもの」以外の「津軽山唄」「けんりょう節」「津軽木挽き唄」「道中馬方節」「弥三郎節」「十三の砂山」「鯵ケ沢甚句」「津軽音頭」などを世に送り出し、ここに初めて津軽の民謡を紹介したとさえいわれるほどの足跡を残したのである。
しかし、その成田雲竹も戦前はこれといった伴奏者にめぐまれず、「津軽音頭」などは無伴奏で歌っていた。ところが戦後、高橋竹山と出会ったことから、相三味線をつとめてもらうようになり、祖父の膝の上で覚えた「津軽音頭」の口三味線を復元してもらった。これは高橋竹山一代の名作である。
その後、昭和26年11月の文部省主催の郷芸大会に参加した津軽のアマチュア成田雲竹は、高橋竹山の力を借りて、伴奏つきの「十三の砂山」と「弥三郎節」を発表、これより雲竹‐竹山のコンビによる黄金時代を築いた。
著書に『津軽民謡茶話』があるほか、吹き込んだレコード、カセットテープは数知れない。(『青森県百科事典』)
津軽民謡草創期の人びと―旅芸人の歴史と秘話を訪ねて
りんご節
昭和29年、成田雲竹詩・曲により発表され、同30年にビクターレコードより、佐藤りつの歌で発売された。
成田雲竹によると、この歌は、埼玉県入間郡地方の民謡「麦踏み唄」を元に作ったという。
春はりんごのいと花盛りヨー
いとし乙女のヨーホイ 頬かむりー
夏は青葉の緑の林ヨー
密にあこがれヨーホイ舞う蝶々ー
秋は稔りにもぎとる若衆ヨー
ねじり鉢巻ヨーホイ豆しぼりー
冬は倉入りお囲い娘ヨー
花の都ヘヨーホイお嫁入りー
・・・
ワイハ節
富山県の民謡越中小原節を題材に、昭和8年1月に発表された作品である。
津軽方言で唄える名曲である。成田雲竹より私が直接聞いた話の中で「リンゴ節」とこの曲は絶品である、と誇らしげに語っていた。
作詩・作曲はもちろん「成田雲竹」である。
津軽生れでヨイナ 言葉コ悪いが
一度会って見ろヨイナ サアーワイハ根は正直
姐コよう聞けワイハ そうでごいしよ
米とリンゴはヨイナ 津軽の命
取れよ作れよヨイナ サアーワイハ国のため
姐コよう聞けワイハ そうでごいしよ
津軽民謡の元祖の碑(青森県つがる市森田町)
民謡のふるさと―北海道・東北(カラーブックス〈540〉)
津軽民謡の元祖の碑
「弥三郎節」で有名な木造(青森県西津軽郡木造町:現つがる市)から「鯵ヶ沢甚句」の町鯵ヶ沢(青森県西津軽郡鯵ヶ沢町)に至る街道の途中に月見野十三番地(青森県西津軽郡森田村月見野:現つがる市森田町)がある。
津軽民謡の先覚者成田雲竹の生まれたところである。その生家の脇をぬけて裏へ行くと石段に出る。久須神社への参道である。雲竹も子供の頃、よくその石段を駆け登った。登りつめると、そこは久須神社の境内である。木の間がくれに霊峰岩木山が見える。そこに民謡の祖米谷源助と刻んだ碑が建っている。
この男は森田村の生まれであるが、たいへんな美声で、なかなかの名手であった。しかし当時のホイド(祝人)とか坊さまという人たちのように、門付けもしなければ旅回りもせず、故郷にいて旧来の節回しで歌っていた。その行動は、のちの成田雲竹の生き方を決めた。唄だけの師ではなかったのである。源助を師と仰ぐ雲竹が建てたのがこの「記念碑」である。
成田雲竹翁民謡碑(諏訪神社・青森県青森市栄町1-4-26)
みちのく歴史人物資料館(青森県弘前市松原東4-5-31)
日本民謡協会ウェブサイト
高橋竹山オフィシャルサイト
成田雲竹墓所(三内霊園・青森県青森市三内沢部353)
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2006年06月17日より
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