梶原末廣さんからの情報です!
リアル熟議SATSUMA 2011年秋の陣vol.2
*メインゲスト決定です!(高谷哲也氏)
http://www-kyou.edu.kagoshima-u.ac.jp/~takatani/
主催:「リアル熟議in鹿児島」実行委員会
期日:平成23年10月15日(土)
概要:鹿児島で学ぶ高校生と大学生と社会人が一同に会し、教育を...
TOP>(鹿児島市内旧上方地区)
川路聖謨(かわじ・としあきら)・大分/江戸の偉人
豊後国日田永山代官所(大分県日田市丸山2・月隈公園)の官舎に生まれる。
享和元年(1801)4月25日‐慶応4年(1868)3月15日 68歳
幕末の旗本、勘定奉行。
対ロシア外交の立役者としても知られる。
軽輩の出ながら昇り得る最高の地位まで異例の出世を果たし「今太閤」と称された。
落日の宴―勘定奉行川路聖謨 (講談社文庫)日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男に生まれる。幼名は弥吉、号は敬斎。
川路は、外交官としても第一線に立ち、ロシア使節プチャーチンとの間で日露和親条約を締結する。談判の記録を読むと、かれがプチャーチンに少しも臆することなく堂々とした議論を展開しているのが知れる。それは、かれが外国事情に精通していたからで、駈け引きもまことに巧妙であり、その根底にはゆるぎない誠実さがあった。
プチャーチンにとって川路は外交交渉の敵であったが、川路の聡明さと外交官としての鋭い徳性に感嘆し、類い稀な人物と激賞している。川路とプチャーチンとの間には敬意と親愛の念が感じられ、まことに快い。
私が川路に魅せられたのは、幕末の功労者であるとともに、豊かな人間性にある。
幕吏としてかれは、十分に分をわきまえた姿勢をとりつづけ、きびしく自らを律している。日常の生活はきわめて質素で、勘定奉行という要職にありながら衣食住ともに粗末で、家族にも贅沢を決して許さない。
大の酒好きであるのに、公務の旅では一切杯を手にせず、家臣にも禁酒を課した。旅中、各藩領を通って大名に迎えられるが、接待を受けるのを極力避け、贈物も些細なものしか受け取らない。常に身辺を清らかにするよう心掛けていたのである。
また、激職にたえるための体力の維持にもつとめ、毎日夜明け前に起きて刀の素振りなどをし、早足で歩く。そのため徹夜も苦にせず、精力的に仕事をこなす。
かれが女性に潔癖であることが日記からうかがえるが、それは滑稽なほどで、思わず頬がゆるむ。妻を愛すること甚だしく、それをつつまず日記に書いていることもほほえましい。
4歳のとき一家で江戸に出て、12歳で小普請組・川路三左衛門光房の養子となり、文化10年(1813)13歳で家督を相続した。
17歳のとき、勘定所の筆算吟味の試験に合格し、翌年、下級武士出身で初の支配勘定出役となり、以来、能力を認められて累進、佐渡奉行、小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行などを歴任した。
奈良奉行時代に聖謨が行った山稜対策についてはあまり知られていない。
川路聖謨 (人物叢書)嘉永5年(1852)勘定奉行に昇進して海防掛を兼ねた。
奉行の管内巡見の道すがら元明・元正・平城・成務・称徳などの各天皇陵と、神功皇后陵を実見し・・・早くも山稜荒廃の実態を目撃している。
・・・
山稜問題の現実に覚醒した聖謨が、山稜のために最初に行ったのは『神武御陵考』の執筆である。同書は書名から判断できるように、要するに神武天皇陵の所在を考定したものだが、執筆の動機は本居宣長の著書である『古事記伝』を読んで、神武天皇陵の所在に関する同書の記述に不審を抱いたことに起因する。
・・・
いずれにしても、聖謨が『神武御陵考』を執筆した意義は少なくない。つまり嘉永2年(1848)といえば、江戸幕府が開かれて二百四十年あまりが経過する。この間、幕臣にして山稜関係の著述を例を聞かない。ましてや奉行クラスの著述となれば、それだけ周囲に及ぼす影響力が強く、政治的な効果も期待できるはずである。
嘉永6年(1853)ロシア使節プチャーチンの来航に際して、露使応接掛として長崎に赴き、翌年、再び伊豆下田において折衝、プチャーチンとの間に日露和親条約を結んだ。
ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している。
川路聖謨(かわじとしあきら)安政5年(1858)2月、老中堀田正睦に随従して上洛、日米修好通商条約調印の承認を朝廷に求めたが失敗。
長崎以来、さしも難航した日露交渉がやっと決着したのだ。北方国境条約中カラフトについては、確かに問題を後にのこした憾みがあった。これについては阿部老中首座はじめ幕閣には、全島を日本領に要求せよという・・・強硬論もあったし、聖謨自身もせめて北緯五十度以南の領有まで漕ぎつけたい気はやまやまだった。しかし、「当時の日本たる、一隻の軍艦もなく、一隊の銃兵もなし。たとひ忠勇の我国人にせよ、只に刀槍又は火縄の古銃をもて、如何んそ彼得(ピョートル)大帝以来、兵を練り艦を造り、北欧に雄飛する露国と雌雄を干戈(武器)に決することを得へけんや」(『日記』)とあるがごとくで、涙をのむほかはなかったのである。が、千島に関しては、当方の主張どおり、エトロフ以南の諸島ははっきり日本領と確定したわけである。
・・・北辺四島帰属いかんは現代の目ソ両国当面の最重要な政治課題の一つであるが、日本が四島の領有をもっとも主要な根拠こそ、まさに安政元年に下田で締結されたこの日露和親条約にほかならない。そして、その場面の立役者が川路聖謨その人だったのだ。
当時、政治問題となっていた将軍継嗣問題では、一橋慶喜を擁立する一橋派と目され、大老井伊直弼によって同年5月、西ノ丸留守居に左遷された。
官僚川路聖謨の生涯 (文春文庫)文久3年(1863)5月、外国奉行に起用されたが、老齢のため同年10月、辞職した。
通商条約の締結問題とからんで一橋建儲運動がさかんになり、川路は、一橋建儲運動のりリーダー越前福井の松平越前守慶永から、味方するようにと手入れされたことがある。使者は慶永の家臣橋本左内で、左内はそのときの川路の様子をこう報告している。
「月の水中に有りとは見えて手にとれ難き語らいぶり」
川路は何事にも慎重で誰彼の誘いに気安く乗らなかった。また何かについて自己主張することもなかった。もちろん自分なりの主義主張はあったが、それを人に明かしたり、語ったりもしなかった。それがまた官僚としての当然の責務だと思っていた。
世の中は分からない。そんなまるで隙のない男でも失敗することがあり、やがて隠居永螢居という処分をこうむるのだが、生き様といい能力といい、江戸期を通じて川路ほどの官僚はいない。あらためていうが、川路は官僚の鑑というのが、書きおえての率直な感想である。
慶応4年(1868)江戸開城締約の翌日(3月15日)、表六番町(千代田区六番町)の自宅でピストル自殺を遂げた。
辞世の句「天つ神に背くもよかり蕨つみ 飢へし昔の人をおもえば」。
川路聖謨 (人物叢書)
それにしても聖謨は、なぜ自尽という道を選んだのであろうか。一言でいえば、幕府の互解に殉じたのである。それでは聖謨はなぜ殉死の道を選んだのかということになるが、それには聖謨の性格と彼自身の境遇などが多いに関係しよう。・・・下級幕吏の子が無役の御家人の家を継ぎ、才能と努力があったにせよ、勘定奉行にまで登り詰めたのであるから、主家徳川家の君恩を思う心と、それに対する報恩の情は異常なまでに聖謨の骨肉に染み込んでいた。しかも当時の境遇は隠居の身であり、将又再起の期しがたい半身不随の病躯であった。いわば局外にあったわけである。したがって、その死は強制され、追い詰められた結果の死と見るべきではなく、冷静な判断のもとに自ら選んだ道と考えるべきだろう。
・・・
聖謨はその最期によって、仕えるところに忠なりし人物として、後世に強い感動と共感を与え続けているのである。けだし、死すべき時を誤らなかったというべきであろう。
天領日田資料館(大分県日田市豆田町11-7)
川路聖謨の兜が常設展示されている。
江戸最初の「お玉ヶ池種痘所記念碑碑」(東大医学部発祥の地・東京都千代田区岩本町2-7-11)
現在岩本町2丁目になっているところあたりに「お玉が池」がありました。お玉ヶ池は徳川初期には不忍池ほどの広さでしたが安政のころには小さなものになり現在はそのあとかたもなく史蹟としてお玉稲荷が祀ってあるだけとなっています。この、お玉が池のほとりに、安政5年(1858)伊藤玄朴や大槻俊斎ら江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合って「種痘所」をつくりました。種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったといわれています。ただし、半年後に焼失し、下谷和泉橋通り(現・神田和泉町)に移ってしまいました。しかし、この地で生まれた蘭学者たちの精神は生き続け、種痘所は名前を変えながら東京大学医学部へと発展しました。(千代田区観光協会ウェブサイト)
植桜楓之碑(奈良県奈良市登大路町49)
奈良奉行時代の聖謨の植樹事業に対する記念碑。
川路聖謨 (人物叢書)
春には桜を、秋には紅葉を楽しめる花の名所を興福寺・東大寺の二大刹を中心に復興するのが最善の策と考えた聖謨は、この話を町の有力者に持ちかけ、彼らに音頭を執らせて実行に移した。まさに緑化運動といえるが・・・
わずか二ヶ月余のうちに数千本の桜・楓の苗木が集まった。それらを興福寺・東大寺の境内をはじめ、奈良奉行所構内、さらには高円・佐保地域などにまで植樹したのである。・・・その植樹にいたる経緯は、興福寺境内猿沢の池畔の五十二段脇に現在も建っている「植桜楓之碑」が雄弁に物語ってくれる。
川路聖謨墓所(大正寺・東京都台東区池之端2-1-21)
川路聖謨之生涯 (1970年) (近代文芸・資料複刻叢書〈第8集〉)
幕臣 川路聖謨の日記
川路聖謨と異国船時代
長崎日記・下田日記 (東洋文庫 (124))
島根のすさみ―佐渡奉行在勤日記 (東洋文庫 226)
エドウィン・ダン(Edwin Dun)・北海道の偉人
アメリカ・オハイオ州生まれ。
明治6年(1873)25歳で来日、北海道開拓使に招かれたお雇い外国人。
1848年7月19日‐昭和6年(1931)5月15日 84歳
北海道の牧草地や畜産施設の整備に尽力し、わが国畜産・農業の発展へ導く。
「北海道農業の父」「北海道酪農の父」「真駒内用水路の父」「近代競馬の父」と称される。
貢献した外国人たち (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)父親の経営する大牧場で育ち、家業を手伝いながら家畜の飼育法を学び、また、叔父の牧場で競走馬の育成法を学んだ。
北海道酪農―畜産・農業の基礎を固めたダン
北海道の開拓は明治政府の大きな課題であったが、その広大な原野を開墾して牧草地や畜産施設の整備に尽力し、わが国畜産・農業を発展に導いた第一の功労者がダンである。
お雇い外国人教師として開拓使の農業指導に来日したダンは、牧場経営の経験を生かして実地指導に努め、あらゆる設備を有する三〇〇〇ヘクタールの真駒内種畜場を開設、ここを北海道酪農の一大拠点にした。
四半世紀を日本のために捧げた誠実な先覚者だった。
明治6年(1873)ダンは、開拓使顧問のホーレス・ケプロンに見出されて来日し、1年間の契約で、家畜の飼育法、農具の使用法などを指導することになった。
牛40頭と羊91頭をアメリカから日本へ運んだダンは、開拓使麻布三号官園の運営を任され、約30人の生徒に農業指導を行った。
1年間の契約期限が迫り、ダンは帰国を考えたが、未知の北海道の開拓に関心が高まり、引き続き開拓使にとどまった。
明治8年(1875)北海道への長期出張を命じられ、札幌や日高の新冠などを視察して、牧場の経営管理や改善策、家畜飼育に関する意見書を開拓使に提出している。
この出張で、函館近郊の七飯官園の調査の際、津軽出身の松田鶴と出会い、ダンは東京へ連れ帰って国際結婚にふみきった。
ダンがこの後も契約を更新して北海道開拓に尽力したのも、日本に永住を決意したのも、鶴との結婚を抜きには考えられない。
明治9年(1976)ダンは妻を伴って札幌に移住した。住居は今の時計台の近くにあったという。
クラークに協力し、札幌農学校の整備や教育にあたりながら、牧羊場・養豚場をつくり、真駒内には大きな牧場を建設、牛の改良にも力を尽くした。
土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人びと〜北海道・真駒内用水路の父・エドウィン・ダン新冠では、馬の大牧場をつくり、北海道産の馬の改良につとめた。新冠牧場では、シビチャリ川の洪水、バッタ・野犬・狼による被害が多かったが、職員らの努力によって切り抜け、日本一の大牧場へと導いた。
真駒内用水路
札幌初の「疏水」を建設したのはダンであった。後に札幌東部の水田も潤した「真駒内用水路」を紹介したい。
ダンが活躍した当時の真駒内牧牛場では、飼養頭数の増加に伴い地下水だけでは家畜用水が不足したため、彼は1879年(明治12年)、真駒内川に水源を求め、深さ60cm、幅90cm、精進川に至る全長約4kmの用水路を建設した。水路底を木の厚板で装工した。併せて家畜の肥料粉砕のための水車小屋も建設した。
ダンが去った後の明治27年、米需要の増大を受け、当時の北海道庁では米生産を推進した。農家で組織した「札幌市豊平外四箇村総合用水組合」では、水稲栽培に必要な水を、流量が豊富で安定している真駒内用水路に求めた。ダンが築いた水路の断面を広げ、下流を新たに開削し、それまで数haだった水稲栽培面積は急速に拡大し、水利権上の灌漑面積は391haとなった。 「灌漑用水路による水稲栽培の成功」は、その後の北海道における水稲栽培に、一筋の光を与えた出来事であった。
現在の馬産王国日高の礎はつくった功労者がダンなのである。
悪い馬をなくし、優秀な馬だけを繁殖させるという「去勢」という方法を日本にはじめて導入したのもダンであった。
日本競馬を創った男 エドウィン・ダンの生涯 (集英社文庫)ダンは、畜産のみならず農業のあらゆる分野で活躍した。
解説―“近代競馬の父”―エドウィン・ダンと著者について
『優駿』誌上の連載物だから、中心はやはり馬関係になるが、このように北海道の開拓期人々が日本近代競馬の基礎を創った、という史実がよく理解できるし、その力の源が若いナイーブなアメリカ人とサムライ娘との堅く結ばれた夫婦愛であったことは確かであろう。
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数奇な巡り合わせ、運命と言ってしまえばそれまでである。けれどもおそらく、ダンにとって最高の人生はつるによって得られ、つるの求める幸せはダンとの結ばれる以外にはあり得なかったと思えるのである。
あるお雇い外国人の生涯―ネーイちゃんの見た父エドウィン・ダン9年9ヶ月にも及んで北海道の開拓に尽くしたダンは、明治15年(1882)開拓使廃止に伴い、東京に戻った。
北海道でのダンの活動が目覚しくなった頃は、ケプロンその他多くの御雇外国人は解雇となり、ダンとベーマーが最古参となっていた。
ダンは、牧場の管理経営を通じて技術者を育成する外に、畜力農具を使った畑作も指導し、自ら各地を回って指導する外甜菜・亜麻など後に北海道農業の特徴となる作物を試み、立派に成長することを証明した。
さらに進んで新しい農業による屯田兵村の設計も行い、新しい技術である土管排水も試みた。
その後、アメリカ駐日大使としても活躍したダンは、52歳のとき石油会社を設立して新潟県直江津に精油所を建てるなど、石油業界にも尽くした。
その後、長崎の三菱造船所で沈没船の作業に携わるなど日本の発展のために尽くした。延べ56年間を日本で過ごしたダンは、東京で84年の生涯を閉じた。
土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人びと〜北海道・真駒内用水路の父・エドウィン・ダン
ダンの功績は、畜産・畑作一般から土地改良に至るまで、非常に多岐にわたった。
・乳用牛・種馬・めん羊・豚の飼育管理の指導、及び品種の改良
・「牧馬場」として新冠牧場を整備。以降、北海道日高地方が馬産地としての地位を確立
・獣医学・解剖学の講義および指導(日本初の獣医学者であった)
・西洋式競馬を北海道で実施
・牧草の採種試験を実施
・ハムやバター等の製造を指導
・畜力農機具の採用(プラウ等の導入)
・北海道での新品種の播種、栽培(麦・甜菜・馬鈴薯・りんご等)
・輪作営農の必要性を提言
・屯田村の農業経営設計
・江別屯田村で、土管排水の重要性を指摘
・真駒内用水路の建設
加えて、「町村金弥」といった優秀な農業経営者を育てたことを忘れてはならない。その後の北海道農業の発展を支えたのは彼らであった。
エドウィン・ダン記念館(エドウィン・ダン記念公園内・北海道札幌市南区真駒内泉町1-6)
エドウィン・ダン銅像(エドウィン・ダン記念公園・北海道札幌市南区真駒内泉町1)
真駒内開基百年記念碑(真駒内第1公園・北海道札幌市南区真駒内曙町1)
模範家畜房(北海道大学内・北海道札幌市北区北19条西7)
わが国最初のモデルバーンが現存する。その建築に際してダンもクラークらに協力した。
土地改良偉人伝〜水土里を拓いた人びと〜北海道・真駒内用水路の父・エドウィン・ダン(農林水産省)
ななえ人物伝
エドウィン・ダン墓所(青山霊園外人墓地・東京都港区南青山)
お雇い外国人エドウィン・ダン―北海道農業と畜産の夜明け
エドウィン・ダンの妻ツルとその時代 (道新選書)
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