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2011年06月19日

高松凌雲(たかまつ・りょううん)・福岡の偉人

筑後国御原郡古飯村(福岡県小郡市古飯)生まれ。

天保7年(1836)12月25日‐大正5年(1916)10月12日 81歳

医師、社会事業家。
箱館戦争・西南戦争において負傷者を敵味方の区別なく手当を行い、日本における赤十字運動の先駆者として「赤十字運動の父」と称される。
その後、民間救護団体の前身と言われる同愛社を創設、日本における民間社会事業の先駆者としても活躍し、「医聖」とも称される。

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流通と情報の革命 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)

同愛社―医療福祉事業の先覚者高松凌雲

幕末、パリにあって医学を学び、貧しい市民の医療福祉にあたる一市民病院のありかたに感銘した高松凌雲は、そこに医の原点をみて帰国した。
箱館戦争には幕軍側として参加した凌雲は負傷者の治療にあたって敵昧方の区別なく、赤十字精神による日本最初の医療活動を実践した。
以後、浅草に開業し、一介の町医者に徹するかたわら、同志をつのって同愛社を設立し、貧民救療活動に献身した。わが国の医療福祉事業の先鞭である。

庄屋高松虎之助直道の三男として生まれる。名は権平、のち荘三郎。

久留米藩士の養子となるが、将来の希望を見出せず、脱藩した。

安政6年(1859)江戸の石川桜所(おうしょ・蘭方医で幕府奥医師)の食客生となり、文久元年(1861)大坂で適塾に入門するが、翌年緒方洪庵が東上したため、その後横浜でヘボンに学んだ。
高松凌雲と適塾―医療の原点

文久元年(一八六一)に適塾に入門した塾生は、高松凌雲の他に、明治十一年に病体解剖社をつくり病理解剖の重要性を唱導し、後に陸軍軍医学校長になった田代一徳(基徳)をはじめ、総数三十五名であった。
入門者の署名帳である『適々斎塾姓名録』には、「文久元年四月二十一日入門 筑後久留米 高松与吉伜高松凌雲」が五八〇番目に、「文久元年四月十八日入門 豊前中津 田代一徳」は五七九番目に記入されている。
慶応元年(1865)一橋家軍制所付表医師となり、同3年(1867)徳川昭武のお付医師としてパリの万国博覧会に随行し、公務を解かれたあと、同地で医学を学んだ。
夜明けの雷鳴―医師・高松凌雲 (文春文庫)

凌雲にとって最も重要な意味をもつのは、徳川慶喜の名代としてパリの万国博覧会に出席する徳川昭武に随行してヨーロッパにおもむき、パリの医学校兼病院である「神の館」で医学を修める機会を得たことで、それなくしては凌雲は単なる一医師として終ったことはまちがいない。渡欧がかれの生き方を左右したのである。
・・・
凌雲は、新鮮な眼でヨーロッパ文明に接し、最新の西欧医学を身につけた。パリに滞在中、幕府の瓦解を知り、祖国の政変に驚きと心痛をおぼえた。
帰国後、凌雲は榎本軍に投じて箱館の土をふみ、野戦病院とも言うべき箱館病院の頭取となる、医療に専念するが、その強靭な意志力による動きは多彩で、爽快な感じすらする。(あとがきより 吉村昭)
明治元年(1868)鳥羽・伏見の戦の報により帰国、榎本武揚の嘱により箱館の病院で医務を統轄した。
五稜郭攻防戦の負傷者を敵味方の区別なく手当をしたが、これはわが国における赤十字思想の初期の実践とされる。
箱館戦争銘々伝 下

凌雲は生殺与奪の権を握られ、自軍へ降伏を勧める使者となった。戦は集団戦である。一人の寝返りや自軍を裏切る行為や行動は死を以て償われる。一人の行動が全体に影響を及ぼす。だから健全な軍隊の規律は威しいのである。
敗色明らかな旧幕府軍を全滅から救ったのは事実である。様々な状況がある。「しおどき」という言葉だってある。
凌雲は生まれついての武士ではないにしろ、徳川の禄を受け、主君への忠誠心からここまでやってきた。寝返りではないにしろ、味方にとっては命惜しさの行動という事実は消えない。
凌雲にとって「患者の命を救うことが目的」である以上、今できることを精一杯やるしかなかった。戦後、凌雲とともに書面に名を連ねた小野権之丞は、一言も語らず、明治二十二年四月二日、東京で没した。
凌雲は語った。戦場で、病院で亡くなった多くの兵士や医師たちのために。高龍寺で被災した同僚と患者のために。箱館戦争をともにした友人たちのために。そして何より家族が誇りを失わないために。凌雲の父が、子供たちに語り聞かせたように。
明治五年一月六日、凌雲は榎本らが赦免されたと聞くと一散に飛んで出かけ、講和の行為を詫びている。敗色は明らかであっても、しおのあげどきであっても、使者となったことには変わりがない。誰も責めなくても、自身が自身を責めた。
敗戦後の明治2年(1869)阿波(徳島)藩預けとなるも翌年それを解かれ、東京浅草に医院を開く。

西南戦争でも負傷者を敵味方の区別なく治療した。

明治12年(1879)同愛社を創立、貧民の救療事業にあたったが、これはわが国での初期の民間社会事業である。

高松凌雲先生誕生之地碑・生家(福岡県小郡市古飯)


マンガ高松凌雲の生涯


函館市立函館博物館(北海道函館市青柳町17-1)
    

はこだて人物誌  
 
             
高松凌雲君追弔碑(円通寺東京都荒川区南千住1-59-11)


高松凌雲墓所(谷中霊園・東京都台東区谷中7)


医傑凌雲 日本に赤十字をもたらした医聖高松凌雲の生涯


医の時代―高松凌雲の生涯

2011年05月13日

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2011年04月05日

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2011年01月19日

歴史公園えさし藤原の郷(岩手県奥州市江刺区岩谷堂字小名丸86-1)

TEL 0197-35-7791

開園時間 9:00〜17:00(冬期間11月1日〜2月末日までは16:00閉園)

年中無休

入場料金 一般800円


奥州藤原氏の軌跡を辿り、みちのくの歴史と文化が体験できる、約20ヘクタールの広大な歴史テーマパーク。

元々は平成5年(1993)〜平成6年(1994)に放送されたNHK大河ドラマ第32作目『炎立つ(ほむらたつ)』撮影の為の大規模オープンセットとして作られたものを、撮影終了後に整備開放された。

奥州藤原氏の祖・藤原経清・清衡父子居住の豊田館跡付近に造られた。

厳密な時代考証に基づき、東北古代の城柵から豊田館をはじめ奥州藤原氏の政庁、秀衡の居館・伽羅御所、黄金文化の象徴である金色堂などを本格再現している。

NHK大河ドラマをはじめ、数多くのテレビ番組や映画などのロケ地としても知られている。

藤原経清(ふじわらの・つねきよ)・平安時代

生年不詳―康平5年(1062)9月17日

百足退治の伝説で有名な田原の藤太(俵藤太)こと藤原秀郷五世の孫に当たり、父頼遠は下総国住人であったといわれる。

安部頼時の婿となり、亘理権大夫と称した。

この経清が安倍頼時の嫁婿となって、当時の江刺郡豊田館(岩手県奥州市江刺区)に移り住み、1056年、この地で藤原清衡が生まれたと伝えらる。

前九年の役(1051〜62)では、初め国府の官人として源頼義に従っていたが、間もなく義父・安部頼時側に走り、頼時の戦死後は安部氏側の中心的存在となる。安倍氏とともに九年余りにわたって戦うも、最後は隣国出羽の豪族・清原氏の援けを得た源軍に厨川柵(岩手県盛岡市)で敗れた。

敵将・源頼義の経清に対する恨みは深く、厨川柵の陥落後、経清は鈍刀で斬殺された。

炎立つ 壱 北の埋み火 (講談社文庫)

藤原清衡(ふじわらの・きよひら)・平安時代

天喜4年(1056)―大治3年(1128)7月13日 73歳

奥州藤原氏の祖として、奥州藤原氏繁栄の基礎を築いた武将。

父は藤原経清、母は安倍頼時のむすめ。

父が前九年の役で処刑された後、母が清原武貞に再嫁したため清原氏を名乗る。

永保3年(1083)、異父弟家衡と結び、武貞の嫡男真衡と争った。

真衡の死後は家衡と争い、源義家の支持を得て滅ぼした(後三年の役)。

安倍・清原氏の所領を支配し、藤原姓に復した。

平泉を居館として、中尊寺を建立。

藤原清衡生誕の地(館山史跡公園・岩手県奥州市江刺区岩谷堂)
清衡生誕の地とされる館跡に二清院(八角堂の建物)が建てられ、木造の経清・清衡像が安置されている。

夢館奥州藤原歴史館(岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関13-1)
初代清衡が築き基衡、秀衡時代に黄金期を迎え、泰衡時代に滅亡した奥州藤原氏。平泉を舞台に栄華を極めた100年間のその歴史を「興味をもって、楽しく、わかりやすく、そして正確に」をテーマにパノラマ形式で展開。

藤原清衡墓所(中尊寺金色堂・岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202)

奥州藤原氏四代 (人物叢書)

平泉物語―藤原氏四代の盛衰

平泉の世紀 藤原清衡 (清水新書 (001))

奥州藤原四代甦る秘宝

藤原基衡(ふじわらの・もとひら)・平安時代

生年不詳―保元2年(1157)?

清衡の子。母は平氏という。

陸奥・出羽両国の押領使。

父の死の直後、大治4年(1129)、兄惟常(これつね)と戦って勝利し、奥州藤原氏二代目当主の地位を確立した。

平泉を本拠に奥羽両国を支配し、子の秀衡とともに奥州藤原氏の全盛期を築いた。

摂関家に所領を寄進し、その管理にあたったが、仁平3年(1153)貢増徴をめぐり藤原頼長と争った。

毛越寺(もうつじ)を建立した。

毛越寺(岩手県平泉町字大沢)

藤原基衡墓所(中尊寺金色堂・岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202)

奥州藤原氏―平泉の栄華百年 (中公新書)

中尊寺・毛越寺 JTBキャンブックス

藤原秀衡(ふじわらの・ひでひら)・平安時代

保安3年(1122)―文治3年(1187)10月29日 

基衡の子で、奥州藤原氏三代目当主。

母は安倍宗任のむすめ。

嘉永2年(1170)鎮守府将軍に任ぜられる。
右大臣九条兼実は秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いた。

平泉を拠点とし、奥羽両国に強力な支配を展開した。

源平争乱に際しては、源義経を保護するが、源頼朝の追討令がでた後も義経をかくまったことが、平泉攻めの口実となった。

長男・国衡(くにひら)、次男・泰衡(やすひら)に「義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ」と遺言して没した。
無量光院跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立地内)
藤原秀衡が京都の平等院を模して建立した寺院。当時は平等院を上回る規模の寺院であったが、度重なる火災で焼失し、今日では土塁や礎石が残るのみである

伽羅御所(えさし藤原の郷
藤原秀衡、泰衡の居館。
吾妻鏡によると「無量光院の東門に一郭を設け伽羅と号す。秀衡が常の居所なり泰衡相継ぎて居所となりけり」との記述がある。
えさし藤原の郷に推定復元されており、平安時代の寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物である。

柳之御所遺跡(岩手県平泉町平泉字柳御所地内)
政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」跡と推定され、現在は、遺跡面積約10ヘクタールのうち約5ヘクタールが柳之御所史跡公園として整備され、池、堀、道路などが復元されている。

柳之御所資料館(岩手県平泉町平泉字伽羅楽108-1)
遺跡に隣接し、奥州藤原氏に関する資料や出土した遺物が展示されている。

秀衡桜(なかへち観光協会)

藤原秀衡墓所(中尊寺金色堂・岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202)

藤原秀衡―奥州藤原氏の栄光

源平ものしり人物事典―「義経」と106人のビジュアル・エピソード

藤原泰衡(ふじわらの・やすひら)・平安時代

久寿2年(1155)?―文治5年(1189)9月3日

秀衡の次男、母は藤原基成のむすめ。

文治3年(1187)父の跡を継ぎ、陸奥・出羽国の押領使となる。

「義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ」という父の遺言に反し、頼朝の命に従い義経を討つ。

その後、頼朝の大郡に攻められ、平泉を捨てて敗走。途中、肥内郡贄柵(にえのさく)で家臣の河田次郎に殺害される。

首は眉間に八寸釘を打って柱にかけられ、のち中尊寺金色堂に納められた。
義経終焉の地・高館義経堂(岩手県西磐井郡平泉町大沢)

永福寺跡(神奈川県鎌倉市二階堂)
鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで鎌倉の三大寺社の一つだった。
二階建てであった事から二階堂とも称され現在の地名の由来となっている。
源頼朝が義経・藤原泰衡をはじめとする奥州合戦における数万の怨霊をしずめるため建立。

藤原泰衡墓所(中尊寺金色堂・岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202)




2011年01月17日

鹿児島市大黒町【売地】事業用地向きで南向き11坪価格830万円

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2011年01月12日

義経資料館(北海道沙流郡平取町本町119)

連絡先 平取町役場 TEL01457-2-2221

開館時間 9:00〜17:00

休館日 月曜日

休館時期]12月〜翌4月

入館料 一般200円

展示品・収蔵品 義経公御神像、錦絵額、陣太鼓、御輿、甲冑、太刀等

北海道に数多くの伝説を残し、先住のアイヌ民族からもハンカン(判官)カムイ(神様)として親しまれた偉人源義経公にまつわる資料を展示している。


義経の主な史跡

義経神社(北海道沙流郡平取町)
近藤重蔵らが建造。義経の御神体を奉納した。境内に義経資料館がある。

高館義経堂(岩手県西磐井郡平泉町大沢)
義経最後の地、義経像が安置。

雲際寺(岩手県奥州市衣川区張山63)
自害直後の義経の遺体が運び込まれた。
義経夫妻の位牌が安置されていた。

重染寺五輪塔(岩手県奥州市江刺区)
義経と忠臣鈴木三郎重家の菩提を弔おうと、重家の息子、小太郎重染が建てた重染寺にある供養塔。

大夫黒顕彰碑(岩手県一関市千厩町千厩字下駒場地内)
秀衡が贈った義経の愛馬「大夫黒」の顕彰碑。

束稲山(岩手県平泉町、奥州市、一関市)
山頂近くに義経の馬の蹄の跡が残る馬蹄石がある。

判官森(宮城県栗原市栗駒沼倉)
義経の胴体が葬られたとされ、山の頂部に義経の胴塚とされる五輪塔と石碑が建つ。

真言宗大覚寺派龍護山・満福寺(神奈川県鎌倉市腰越2-4-8)
義経が腰越状を書いたとされる寺。

白旗神社(神奈川県藤沢市藤沢2-4-7)
義経の首が葬られたとされる。

源義経像(鹿山公園・静岡県伊豆市修善寺)

義経岩(富山県高岡市渋谷・雨晴海岸)
義経一行が奥州平泉へ向かう途中に俄雨が降り出したため、弁慶が岩を持ち上げ、その陰で雨宿りをした、という伝説が残る。

如意の渡しの義経・弁慶の像(富山県高岡市伏木2)

安宅の関跡(石川県小松市安宅町タ17)
義経・弁慶・富樫の銅像がある。

鏡の宿(滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡)
平治物語で義経元服の地とされる。

鞍馬山(京都府京都市左京区)

牛若・弁慶像(五条大橋・京都府京都市下京区)

源平合戦史跡(須磨観光協会)

源義経像(旗山山頂・徳島県小松島市芝生町宮ノ前)

義経屋島合戦ゆかりの地(香川県内)

大歳神社(山口県下関市竹崎町1-13-10)
壇ノ浦合戦における義経の戦勝祈願を由来とする神社。

源義経像(みもすそ川公園・山口県下関市みもすそ川町1)

2010年12月28日

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2010年12月26日

片桐貞昌(かたぎり・さだまさ)・奈良/大阪の偉人

片桐且元(賤ヶ岳の七本槍の一人)の弟貞隆の長男として摂津茨木(大阪府茨木市)に生まれる。

慶長10年(1605)−延宝元年(1673)11月20日 69歳

大和小泉藩の第2代藩主。
茶道石州流の祖。

大徳寺の玉舟和尚に参禅し、三叔宗関の号を与えられる。

寛永元年(1624)石見守に任ぜられ、通称片桐石州の名で知られる。

寛永4年(1627)父の死去により家督を継いで大和小泉(奈良県大和郡山市)藩主となる。

寛永9年(1632)幕命により徳川家の菩提所である京都・知恩院の再建の普請奉行をつとめ、各所の作事奉行、郡奉行、巡見奉行などを歴任。

茶人としては、堺千家を名乗った千道安(利休の子)の弟子・桑山宗仙に茶の湯を学ぶ。

当時の茶道界は、古田織部の後継者・小堀遠州、京千家の千宗旦、金森宗和たちが指導者で、堺千家に属する系統は異色であった。

30歳の頃から大和郡山藩主・松平忠明や近江小室藩主・小堀遠州らと茶席を共にしているほか、奈良の茶人とも交遊を深める。

寛文5年(1665)11月には江戸城黒書院で4代将軍家綱や老中たちに点茶している。
このとき茶法の書『茶湯三百ヶ条』を家綱の献上し、将軍家の茶器を鑑定、名実ともに柳営茶道(将軍家茶道)における小堀遠州の後継者として認められた。

『石州佗びの文』のなかで、「茶湯さびたるは吉、さばしたるは悪敷と申事」と述べたでも知られる。

茶道における貞昌の門弟に徳川光圀、保科正之、松浦鎮信、藤林宗源らがいる。


慈光院(奈良県大和郡山市小泉町865)
寛文3年(1663)貞昌が、父貞隆の菩提寺として領地内に、大徳寺185世玉舟和尚(大徹明應禅師)を開山に迎え建立した臨済宗大徳寺派の寺院。
寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま三百年を越えて眼にすることができるということは、全国的に見ても貴重な場所となっている。

石州流茶道宗家高林庵(奈良県大和郡山市小泉町2252)

當麻寺(奈良県葛城市當麻)
貞昌が改修した庭園「香藕園(こうぐうえん)」は桃山期の名園で、大和三名園に数えられる。 
また、茶室「丸窓席」は貞昌の作で、直径約1.8メートルにも及ぶ大円窓が見事な名席。

片桐石州の生涯―徳川四代将軍茶道師範

石州三百ケ条―石州秘伝


2010年11月18日

鹿児島市甲突町【売ビル】賃収及び自社ビル用6,300万円

鹿児島市甲突町【売ビル】賃収及び自社ビル用6,300万円 交 通 清滝通りバス停まで徒歩1分 土地面積 478.98m2/(88.99坪) 間取り ( 1階:事務所付3DK住宅、2階:事務所付4DK住宅、3階:2K住宅×3 ) 延床面積 478.98m2/(144.86坪) 物件種目 売りビル(賃収マンション) 所在地 鹿児島市甲突町 土地権利 所有権    総戸数 事...

2009年09月11日

こんなのいいな!不動産業Web応接プレゼンテーション/クリエートハウジングのお客様へ!2009年9月10日号

全方位で行う〔おもてなし〕/不動産業 Web応接プレゼンテーション 毎週金曜日は/不動産スナップショットDay! 〔会社の今〕Now of companyと 〔エリア市況〕Area marketを 発信! (今回は、Now of company版) ----- Original Message ----- From: "株式会社クリエートハウ...

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