肥前国彼杵郡大村(現、長崎県大村市)生まれ。
天保9年(1839)8月28日−明治35年(1902)9月8日 64歳
大村藩医、医学者、官僚。「日本近代衛生学の父」と称せられる。
肥前国大村藩(長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。専斎が4歳の時に父が亡くなり、祖父の俊達に育てられます。俊達は、天然痘の予防など大村藩医として大活躍した医者であり、『解体新書』を読み、当時は邪悪とされた蘭学に没頭したという。そんな祖父の影響で、専斎も医学を志す。
大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校)で学んだ後、安政元年(1854)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、のち福沢諭吉の後をうけて塾頭となる
文久元年(1861)、長崎の医学伝習所でオランダ人医師ポンペのもと西洋医学を学ぶ。明治元年(1868)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任。
明治4年(1871)、岩倉遣欧使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察した。
帰国後の明治7年(1874)、文部省医務局長に就任し、医制七六条を作り、東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長も兼務。この医制は、医者の免許制度や医学教育など現在にも通じるもので、近代医療制度は、専斎の力によるところが大きかったと言える。
明治8年(1875)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任。輸入薬品を検査する司薬所を設立し、牛痘種継所を設置。日本で始めて種痘を施した医者として有名である。
コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、水道事業を行政面・技術面で指導し衛生思想の普及に尽力した。「日本近代衛生学の父」と称せられる所以である。
「衛生」の語は、ドイツ語のGesundheitspfledgeを専斎が訳したことに始まる。
長与専斎旧宅(長崎県大村市久原2・ 国立長崎医療センター内)
専斎が大村で過ごした屋敷の一部は「宜雨宜晴亭」と呼ばれ、国立長崎医療センター内に移設され、残っている。
長与専斎墓所(青山霊園・東京都港区南青山2)
長与専斎の本
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