検索の魔術 (PART 1)


恋愛は、年頃の男女が肉体に
触発された心理現象?

音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。
異なる時代にも亘る言語ですらなかった。
それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、
そもそも、いったい何であったのだろうか。
小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、
東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、
可能性について問われたとき
(そういうことを聞く田舎者が
世界のどこにもいるものである。)、
音楽は、世界の共通の言語であるからと、
(当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、
何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。
壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。
ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して
欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。
かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、
一般的にいって、非現実的であり、できない相談である。
バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。
(中略)
いつだったか、小澤征爾と H.V.Karajanの指揮する M.Ravel の
“Bolero” を聞き比べたことがあった。
小澤の演奏は、英語で言う too square であったが、
Karajanのそれは、なんとも sexyで妖艶ですらあった。
フランス人でもないのに。
やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。
(中略)
わたしは、何々至上主義、といったものが嫌いである。
例えば、恋愛至上主義。
大体、恋愛感情などというものは、ある年頃の男女が肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。
そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。
長い間、生活を共にしていて、まだ互いにsexualityを感じたとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。
J.S.Bach は、
前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、
私はここを書いていて、少し、困っているが。
芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。
pages 5 & 6 間奏曲集 (主題なき変奏) その2
著者: 太田将宏 初版: 1994年1月 改定: 2006年6月
『お願い、骨まで愛して (2006年10月15日)』より
『恋愛至上主義再考 (2009年6月27日)』に掲載

デンマンさん。。。また、太田さんの音楽の本から引用ですか?

実は、太田さんはクラシックの事をたくさん書いているのですよう。
デンマンさんはクラシックにもハマっているのですか?
いや。。。僕はクラシックは、どちらかと言えば敬遠しているのですよう。
それなのに、どうして太田さんのクラシックの本を取り上げるのですか?
あのねぇ、僕はクラシックの事はほとんど分からない。でもねぇ、太田さんの本を人生の書として読んでいるのですよう。そのようにして読むと、なかなか面白いことが書いてある。
上の小文も、デンマンさんが面白いと思ったのですか?
そうですよう。かつてレンゲさんの恋愛至上主義について書いたら、太田さんからコメントをもらったのですよう。レンゲさんも覚えているでしょう?
ええ。。。もちろん覚えていますわ。
僕は太田さんが書いたものを改めて読み返してみたのですよう。レンゲさんも読んでみてください。
恋愛至上主義のレンゲさん

■ 『お願い、もう一度抱きしめて』

レンゲさんが書いた上の詩だって、愛の詩として鑑賞するから興味深いわけですよ。それを、いくら仲の良い夫婦だからといって、15年連れ添って、しかもレンゲさんが書いたような詩を妻が夫に向かって書くことは、まず考えられないだろうし、そういう夫婦が目の前でいちゃついているのを見たら、白けるというか、興ざめするというか。。。

でも、そういう御夫婦がいたとしたら、あたしはうらやましいですわ。
だから、レンゲさんのように考える人も居るわけですよ。そういう考え方が悪いと言っているわけじゃない。しかし、太田さんのように芸術至上主義、恋愛至上主義が嫌いで、受け付けたくない人も実際居るわけですよ。
デンマンさんは?
僕も、恋愛が至上だとは考えていませんよ。恋愛至上主義を実践している50才の夫婦が、目の前でいちゃついて、ベタベタ、ネチネチ抱き合ってキスしているのを見たら、白けますよ。
洋ちゃんがあたしの詩に興味を示さないのは恋愛を至上とは考えていないからだとおっしゃるのですか?
当然ですよ。レンゲさんだって、その程度のことは理解しているでしょう?清水君は“愛”を心で感じるタイプというよりも、太田さんのようにオツムで理解するタイプですよ。
デンマンさんもあたしの詩をオツムで理解しているのですか?
どちらかといえば、僕も“愛”をオツムで理解するタイプですよ。でも、レンゲさんの生い立ちや、レンゲさんの人格障害を理解しているから、僕にはレンゲさんの詩は特別ですよ。つまり、レンゲさんをもっと知りたいから、僕にとってレンゲさんの詩は、レンゲさんと同じぐらいに愛(いと)しいものですよ。でも、残念ながら清水君には、レンゲさんの詩がそのようなものとして感じ取れない。そういうわけで、レンゲさんは清水君とは“水と油”で心が通わないものだと思い込んでしまう。そういう時に“下つき”と言われたりするから、ますますレンゲさんは清水君との心理的な距離を感じてしまう。それが“見捨てられ感”と結びついてレンゲさんは清水君から離れてしまった。僕は、そのように見ているんですよ。
だから、あたしはデンマンさんとならうまくゆくんです。
それは、僕がレンゲさんと心の恋人としてうまくやろうとしているからですよ。
あたしだって、そう思ってデンマンさんとうまくやろうとしています。
でもね、レンゲさんは恋愛至上主義なんですよ。詩に書いてあることをそのまま現実化させようとする。僕が鼻の下を伸ばしてぇへらぇへら笑いながらレンゲさんを抱いたら、そのまま不倫になってしまう。
『お願い、骨まで愛して (2006年10月15日)』より
恋愛、は否定しなくとも、
それを至上とするのは、
傍から見ていると、醜悪
Name: 太田将宏
Date: 2006/10/14 00:15
私は、“芸術”と人生は、緊張関係にあるのが、それぞれのあるべき姿であろう、と思っているだけです。
私の拙文でそれが伝わらなかったとしたならば、その責は、私にあります。
しかし、ただ頭で考えた結果ではない、ということは、文章全体で明らかではないでしょうか。
恋愛についても、すべて人の思いは、相対的であって、
何らの客観性のないのは、何のことはない、本能至上主義ではないですか。
恋愛、は否定しなくとも、それを至上とするのは、傍から見ていると、醜悪ではないですか。
これは、知的怠慢だ、と私は思います。
私も、H.v. Karajanの指揮、演奏する M. Ravelの“Borero”に
Erosを感じる感性は持っている上で書いているつもりですが。
『お願い、骨まで愛して (2006年10月15日)』より
何度読んでも僕は考えさせられてしまうのですよう。
何をですか?
“恋愛至上主義”。。。“芸術至上主義”。。。“本能至上主義”。。。いろいろと考えさせられますよう。
そう言えば、“愛の緊張”という記事の中でも、上の文章を取り上げていましたよね。
■ 『愛の緊張 (2009年6月17日)
レンゲさんは、やっぱり覚えていましたか!
覚えていますわよう。 “芸術”と人生は、緊張関係にあるのが、それぞれのあるべき姿だから、“愛”と人生も緊張関係にあるべきだとデンマンさんはおっしゃいましたよね。
そうですよう。僕は、めれんげさんの短歌を反芻(はんすう)しながら、“愛の緊張”とは次のようなことではないか?。。。そう思ったのですよう。
愛情の上にアグラを書いてはいけません。
相手の愛情があるつもりになって怠惰になってはダメです。
お互いに相手のナンバーワンを意識しながら
自分を磨(みが)くことです。
常に愛を新鮮なものに保つ努力が必要です。
惰性で愛して居るつもりになってはダメです。
愛されていると妄信してはいけません。
新鮮な気持ちでお互いに愛を感じあう努力が必要です。
。。。で、その事と“恋愛至上主義”が関係しているのですか?
僕はねぇ、太田さんの次の言葉に引っかかったのですよう。
芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。
どう言う所に引っかかったのですか?
人生は芸術を演出する時空ではない、と言い切っている。でもねぇ、“芸術”と人生は、緊張関係にあるのが、それぞれのあるべき姿であるのであれば、人生は芸術を演出する時空であってもいいと僕は思いますよう。
たとえば。。。?
次の乱歩先生の小文を読むと“文学少女”が芸術を人生の中で演出しようとしている姿がありありと見えるのですよう。
私は骨の髄まで
文学少女なのです

「文学少女」は普通の小説である。
探偵小説壇には普通の小説に似たものを書く人も多いけれど、その気迫において「文学少女」までいたっている作品は非常に少ないのではないかと思う。
短い短編の中に類型ではあるが、しかし決して通常人ではない一人の文学少女の生涯が、簡潔に、しかし溢れる「情熱」と「自尊心」とをもって描かれている。
。。。
僕はかつて、「日本探偵小説傑作集」の序文で、探偵作家諸君の作風を紹介したことがあるが、その中で木々高太郎君だけは、少し見誤っていたことを告白しなければならない。
彼の文学執心には医学者の余技以上のものがある。単なる精神分析作家ではない。
文学心に燃ゆること、探偵小説界彼の右に出(い)ずるものもないほどであることが、だんだん分かってきた。
僕は彼の作品に、スリルまでに高められた「情熱」と「自尊心」とを感じる。
それが人を打たぬはずはない。
「文学少女」でいえば、わざと学校の答案を間違って書くというくだり、
「恋愛は二人のことだけれど文学は孤独の業である」というくだり、
大心池(おおころち)博士が具体的表現ということから女主人公の文学素質を看破するくだり、
有名な小説家に自作を剽窃(ひょうせつ)されて怒るよりも喜ぶという心理、
その謝礼金の小切手を夫が費消(ひしょう)したことを知って、突如としてメチルアルコールを買いに行くあたりの描写、
そして、女主人公が獄中で一躍流行作家となる運命。
「先生、痛みなどは何でもありません。私は始めて人生を生きたいという希望に燃えて来ました。
(中略)
文学というものは、なんという、人を苦しめ、引きちぎり、それでも深く生命の中へと入って消すことのできないものでしょう。
でも、私はもう七度(たび)も生まれてきて、文学の悩みを味わいたいのです。
私は骨の隋まで文学少女なのです」
これは女主人公が普通の人には堪えられぬ程の骨の痛みに堪えながら、大心池先生に叫ぶ言葉であるが、僕はそれを作者木々高太郎の絶叫ででもあるように錯覚して、快い戦慄を禁じえなかったのである。
そして...
「お願いが一つあるのです。。。それは私はもう一度生まれてきて、文学をいたします。そしたら、やっぱり先生が見出してくださいますわね」
「。。。ミヤが心の内で、先生に接吻しているのを許してください」
…とやせ細った手を上げたが、それは先生を身近く招くためではなくて、近づこうとする先生を、近づかぬように制するためであった。
…という幕切れの、パッと消えてゆく情熱の花火が、消え行く刹那、たちまちその色彩を一変して見せるかのごとき、すっきりしたあの味。
僕は木々高太郎君が、「情熱」の作家であることを知っていた。
しかし彼のより以上の特徴が自尊心の作家であるということをハッキリ認識したのはつい三四ヶ月以来である。
僕は以前からも、それを漠然と感じて、「気迫」という言葉で言い表わしていたが、「自尊心」というのがもっと適切である。
pp.511-513 「文学少女」より
『江戸川乱歩全集 第25巻 鬼の言葉』
監修: 新保博久・山前譲
2005年2月20日 初版1刷発行
発行所: 株式会社 光文社
『虚構の中の真実 (2009年6月1日)』に掲載。
全集第25巻の中では、上の小文を読んだとき、僕は最も感動したのですよう。
どのように感動したのですか?
初めて読んだとき、乱歩先生の感動と戦慄が生々しく伝ってきたのです。。。ヒロインの激痛とか、文学にハマってしまったとか。。。、その情熱や、苦しみ。。。そして、ヒロインと大心池先生との会話。。。乱歩先生が味わった感動が、僕にもマジで伝わってきたのですよう。
分かりましたわ。。。それで、“文学少女”が芸術を人生の中で演出しようとしていとは、具体的にどう言う事ですか?
たとえば、めれんげさんはマジで文学少女なのですよう。めれんげさんがヒロインになって、僕が大心池先生になれば、僕は二人の関係を人生の中で次のように演出しますよう。
「お願いが一つあるのです。。。
それは私はもう一度生まれてきて、
文学をいたします。
そしたら、やっぱりデンマンさんが
見出してくださいますわね」
「。。。めれんげが心の内で、
デンマンさんに接吻しているのを
許してください」
…とやせ細った手を上げたが、
それはデンマンを身近く招くためではなくて、
近づこうとするデンマンを、
近づかぬように制するためであった。
これが人生の中で演出した、めれんげさんとデンマンさんの芸術のドラマですか?
そうですよう。これを読んで、僕は涙がにじみ出てくるほどに感動したのです。うしししし。。。
でも、デンマンさんが自分の都合の良いように書き換えただけですわ。
だから、それが演出するという事でしょう!?
そうでしょうか?
あのねぇ〜。。。文学というものは、自分と自分が愛している人をその状況に置くから、しみじみと感動するのですよう。。。この場合には、めれげさんがヒロインになって、僕が大心池先生になるのですよう。。。そうやって上の文章を読むと、急に涙がにじんでくるのです。。。
マジで。。。?
マジですよう。。。このようなところで僕は悪い冗談を飛ばしませんよう。んも〜〜
でも、あたしが感動するにはイマイチですわ。
分かりますよう。レンゲさんは、多分、白けて居ると思うのですよう。
分かりますか!?うふふふふふ。。。
分かりますよう。。。なぜなら、芸術を演出する人生の時空がレンゲさんと僕では違っているからですよう。
どう言う事ですか?
つまり、めれんげさんとレンゲさんが共有している人生の時空は、めれんげさんと僕が共有している人生の時空とはまったく違っている。
たとえば。。。?
めれんげさんは次のような詩を書いたのですよう。
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