ものものしいタイトルですみません。
ゲシュタルトとは、昨日の日記に付されている極楽鳥さんの解説が簡明で分かりやすいでしょう。
私が正しい理解をしているかどうかは分かりませんが、私の理解を例示しておきます。
へのへのもへじ、ってありますよね。
単に文字を羅列したにすぎないものが顔に見えるのがゲシュタルトです。
逆に、顔に見えていた「へのへのもへじ」が、単に文字の羅列にしか見えなくなった状態がゲシュタルト崩壊。
今日は、「あるがままに観察してみよう」としていました(特に動機はないです)。
人のさまざまな言動を、過去の経験に照らし合わせて「解釈」するのをやめてみたんです。意図的にした「ゲシュタルト崩壊」だと思います。結局のところ分かったのは、こうかもしれないし、ああかもしれないし、そのどちらでもないかもしれない、ということで、今まで得意げに「解釈」していたことがとても馬鹿馬鹿しく思えてきました。
デカルトが全てのものを疑ってかかって、疑いようのないもの「我思う、ゆえに我あり」を発見したのと同じように、上記の過程で見えてきたのは「私はその対象に対して関心がある」という一事のみです。
たしかマザーテレサが愛の反対は無関心であると言ったように記憶していますが、もしそれが正しいとするなら関心があるということは愛しているということです。
誤解を避けるために申し上げておくと、それは恋愛感情という意味ではないです。
ある一人の特定の異性「のみ」への愛(以下「Aの状態」と呼びます。)に対して、それを意味するとされるさまざまな言動(以下「Bの言動」と呼びます。)があるように認識しているとき、そこにはゲシュタルトがあるように思います。
多数の人間への濃淡さまざまな関心(以下「A’の状態と呼びます。)というのが実情ですから、Bの言動をAの状態と解釈することは、現実との乖離を生むことになります。
(私があなたを愛しているのはたしかなことだが、あなた以外の人を愛しているのもたしかなことだ、というのが正直な姿だろうと思います。)
この現実との乖離が苦痛を生じさせるので、AをA’に置き換える必要があります。
ところで、現代は一夫一婦制であり、n対nの恋愛をすることは反社会的なことです(歴史的には、昔の日本では許容されていたようです)。
不倫や浮気をしないのは自己欺瞞?体裁を保つためだけ?
先ほど述べた「濃淡さまざまな関心」は相対的なものですが、これとは質的に異なる「関心」は存在するのか?若い人には絶望的な結論になりますが、おそらくないと思います。
その時点でもっとも関心の濃い相手と結婚したとしても、その相手が自分にとって死ぬまで一番であり続ける保証はどこにもないのです。
結婚を正当化するのは愛=関心ではなくて、企業合併のときに言われる「シナジー効果(ちょっと乱暴に簡単に言うと、1+1=3になる効果)」ではなかろうか、というのが今の私の見解です。もちろん、愛=関心は必要条件ではあるのですが、十分条件ではない。企業合併においては、合併後に一つの会社となった後は、後々より魅力的な合併相手が現れたとしても、現在の合併を解消して新たな合併をするにはコスト的にペイしないことが多く、現在のシナジー効果をさらに高めることに時間を費やした方が合理的です。これが、別れない理由。ですから、シナジー効果が高いと思われる相手と結婚することは合理的な発想なんだと思います。
・・・な~んか、分かったような分からんような・・・。
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ゲシュタルトとは、昨日の日記に付されている極楽鳥さんの解説が簡明で分かりやすいでしょう。
私が正しい理解をしているかどうかは分かりませんが、私の理解を例示しておきます。
へのへのもへじ、ってありますよね。
単に文字を羅列したにすぎないものが顔に見えるのがゲシュタルトです。
逆に、顔に見えていた「へのへのもへじ」が、単に文字の羅列にしか見えなくなった状態がゲシュタルト崩壊。
今日は、「あるがままに観察してみよう」としていました(特に動機はないです)。
人のさまざまな言動を、過去の経験に照らし合わせて「解釈」するのをやめてみたんです。意図的にした「ゲシュタルト崩壊」だと思います。結局のところ分かったのは、こうかもしれないし、ああかもしれないし、そのどちらでもないかもしれない、ということで、今まで得意げに「解釈」していたことがとても馬鹿馬鹿しく思えてきました。
デカルトが全てのものを疑ってかかって、疑いようのないもの「我思う、ゆえに我あり」を発見したのと同じように、上記の過程で見えてきたのは「私はその対象に対して関心がある」という一事のみです。
たしかマザーテレサが愛の反対は無関心であると言ったように記憶していますが、もしそれが正しいとするなら関心があるということは愛しているということです。
誤解を避けるために申し上げておくと、それは恋愛感情という意味ではないです。
ある一人の特定の異性「のみ」への愛(以下「Aの状態」と呼びます。)に対して、それを意味するとされるさまざまな言動(以下「Bの言動」と呼びます。)があるように認識しているとき、そこにはゲシュタルトがあるように思います。
多数の人間への濃淡さまざまな関心(以下「A’の状態と呼びます。)というのが実情ですから、Bの言動をAの状態と解釈することは、現実との乖離を生むことになります。
(私があなたを愛しているのはたしかなことだが、あなた以外の人を愛しているのもたしかなことだ、というのが正直な姿だろうと思います。)
この現実との乖離が苦痛を生じさせるので、AをA’に置き換える必要があります。
ところで、現代は一夫一婦制であり、n対nの恋愛をすることは反社会的なことです(歴史的には、昔の日本では許容されていたようです)。
不倫や浮気をしないのは自己欺瞞?体裁を保つためだけ?
先ほど述べた「濃淡さまざまな関心」は相対的なものですが、これとは質的に異なる「関心」は存在するのか?若い人には絶望的な結論になりますが、おそらくないと思います。
その時点でもっとも関心の濃い相手と結婚したとしても、その相手が自分にとって死ぬまで一番であり続ける保証はどこにもないのです。
結婚を正当化するのは愛=関心ではなくて、企業合併のときに言われる「シナジー効果(ちょっと乱暴に簡単に言うと、1+1=3になる効果)」ではなかろうか、というのが今の私の見解です。もちろん、愛=関心は必要条件ではあるのですが、十分条件ではない。企業合併においては、合併後に一つの会社となった後は、後々より魅力的な合併相手が現れたとしても、現在の合併を解消して新たな合併をするにはコスト的にペイしないことが多く、現在のシナジー効果をさらに高めることに時間を費やした方が合理的です。これが、別れない理由。ですから、シナジー効果が高いと思われる相手と結婚することは合理的な発想なんだと思います。
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