塚本明毅(つかもと・あきかた/あきたけ)・東京の偉人
江戸下谷(東京都台東区)に幕臣の子として生まれた。
天保4年(1833)10月14日‐明治18年(1885)2月5日 53歳
数学者、地誌学者。
初めて算術を系統的に解いた名著『筆算訓蒙』三巻を著し、「天下独歩の数学家」と称された。
改暦事業に携わり、太陽暦導入に尽力した。
日本の『創造力』〈2〉殖産興業への挑戦
改暦事業―太陽暦採用を建議した塚本明毅
明治五年(一八七二)十一月九日、突如、改暦の詔書が下り、太陽暦を採用することになった。
それに先立つ直前、太政官権大外史であった塚本明毅による改暦を進める建議書が提出され、それが容れられたかのようであった。
実際は、新政府の財政事情を考慮して改暦を急ぐ大隈重信の指示のもと、その改暦事業の推進者として明毅に白羽の矢が立ったのであり、内田五観らの暦官を督励して、急ぎ準備を整え完了させたのである。
昌平坂学問所に学び、秀才として知られ、矢田堀景蔵、田辺太一とともに「三才子」と称された。
アメリカ艦隊来航とともにに蘭学も修め、長崎海軍伝習所第一期生に選ばれた。
修業後は幕府海軍士官、軍艦頭並として活躍するが、維新で辞職した。
明治元年(一八六八)徳川氏の静岡移転に従い、沼津兵学校教授頭取を務めた。
幕末・明治初期数学者群像〈上 幕末編〉沼津兵学校の兵部省移管に伴い、新政府に出仕、陸軍少丞兼兵学大教授を経て太政官地誌課長に転じ、改暦事業を指揮、成功させた。
明治元年には塚本は病と称して榎本勢に加わらずにいたが、五月徳川駿河に移封と決まると徳川家のために働くこととなる。
そして間もなく沼津兵学校一等教授に就任した。兵学校頭取は西周であった。西周が新政府に招かれてから塚本は三年九月から沼津兵学校頭取となった。
明治二年に塚本は名著『筆算訓蒙』三巻を著わした。この本は明治五年文部省より学制領布で「算術は洋法而己」と公布したとき教科書として塚本の書を公示したのである。
文部省公示の教科書は他にも開成所出身の数学啓蒙家の算術書等があったが、塚本の本が多く利用されたのである。
初めて算術を系統的に解いた名著であって「天下独歩の数学家」と称された。
太陽暦採用の詔書は明治5年(1872)11月9日に突如発布され、明治5年12月3日を太陽暦の6年1月1日とすることが決まった。
それまで太陰太陽暦を用いていたが、開国とともに諸外国との交渉に不便を生じていたための改暦で、明毅は内田五観らの暦官数名を率い、十数日でこの国家的大事業を完了させたのである。
太陽暦は当時の庶民になじみがなく、新暦理解のための解説書として、福沢諭吉の著した『改暦弁』が広く読まれた。
また陽暦と陰暦の暦日対照表が必要となり、各種の対照表が出されたが、明毅の編纂した『三正綜覧』はその集大成ともいえる。「三正」とは太陽暦・太陰太陽暦・太陰暦を指し、漢の高帝元年(紀元前214年)から明治36年までの2117年間の毎月の大小、朔干支などが示されている。
『三正綜覧』は改訂を重ねて現在まで利用されている。
また明毅は、皇国地誌編纂の必要を建言して、各府県に資料を提出させ『日本地誌提要』77巻を完成させた。
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塚本明毅墓所(成覚寺・東京都新宿区新宿2-15-8)


