水野利八(みずの・りはち)・岐阜の偉人
岐阜県大垣市に生まれ。
明治17年(1884)5月15日−昭和45年(1970)3月9日
ミズノ創業者。
スポーツを愛し、振興に努めた。
小学校のとき濃尾大地震で妹を亡くし、2年後には父親も亡くし、小学校を中退。
大阪へでて、薬種問屋に丁稚奉公へ出る。
真面目な仕事ぶりと能力を高く評価され、14歳の時には重要な仕入れまで任された。
仕事の合間に読んだ伝記でアメリカの百貨店王ワナメーカーの生き方に憧れ、アメリカでの成功を夢見るようになり、英語やアメリカの商法などを学び始める。
後年渡米した利八は、ワナメーカーの子孫に会い、「あなたの祖先のおかげで、現在の事業を築けることができた」と礼をいったという。
外国人と知り合いになる目的で、外国人と第三高等学校生との野球の試合を見に行ったところ、すっかり野球の魅力にとりつかれてしまう。
スポーツ産業という言葉すらなかった明治39年(1906)、弟の水野利三とともに大阪で水野兄弟商会を創業し、野球用品の製造販売を開始。
明治43年(1910)には社名を美津濃商店と改め、それまで注文だけ取り扱っていた運動服を既製品化したり、運動用品を開発したりして、スポーツ産業に本格的に進出した。
利八の創造性は、商品ジャンルの開発、スポーツ振興とスポーツ産業の拡大、ブランド戦略、グローバルマーケティングに発揮され、「スポーツの美津濃」とよばれる基礎を築いた。
また、ボストンバックやポロシャツなどの斬新な商品名をつけることでも才能を発揮した。
明治44年(1911)から、大阪実業団野球大会を主催、大正2年(1913)からは関西学生野球連合大会を主催するなど、スポーツの振興にも大きく貢献した。
それらの功績に対して数々の賞を贈られたが、亡くなった翌年の昭和46年(1971)には、企業人としては初めて野球殿堂入りを果たした。
大阪実業団野球大会は、都市対抗野球に、関西学生野球連合大会は、高校野球甲子園大会の地区大会として現在に引き継がれている。
ミズノ
野球殿堂(野球体育博物館)
戦地と銃後の時代 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)
野球ボールに夢をのせて (PHP愛と希望のノンフィクション<小学中級以上向>)
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