河合小市(かわい・こいち)・静岡の偉人
静岡県浜松市菅原町生まれ。
明治19年(1886)1月5日−昭和30年(1955)10月5日 69歳
河合楽器製作所創設者・初代社長。
江戸時代から続く車大工「するがや」の子に生まれた。
早くに父をなくし、母の手一つで育てられるが、幼少の頃から手先が器用で研究心があったという。
当時の浜松は、日本の楽器産業の先駆として、山葉寅楠が風琴(オルガン)の製造を始めていた。
小市の器用さが評判を呼び、山葉風琴製作所への弟子入りの話が持ち上がり、小市は寅楠の門を叩いた。
弟子入りした小市は、10歳の少年とは思えない研究熱心さと器用さで、たちまち頭角を現し、寅楠の注目を浴びた。
40代半ばの寅楠は、小市を我が子のように可愛がり、オルガン技術を次々と教え込んだ。
当時のオルガンは、外国製品とくらべると見劣りするものであったが、小市はメイスン社のオルガンに刺激されて、新しい工夫を取り入れた新型オルガンを製作した。
同時にカップラーと呼ばれる、オクターブ上、下を音を同時に鳴らす装置も開発した。
明治30年(1897)10月、山葉風琴製作所が日本楽器製造株式会社になった時、小市は研究室長的な役割を与えられた。小市わずか11歳だった。
発明天才児としてアメリカの音楽雑誌に紹介された小市は、次は国産ピアノ開発に取り組んだ。
ピアノ製作過程で最も困難なのは、ピアノの心臓部アクション(ピアノ線を打つ装置)の製作である。
こればかりは、輸入品に頼らざるを得ない状況だったが、小市は、家にも帰らず不休不眠で研究に取り組み、半年後、ついにアクション製作に成功した。
大正5年(1916)8月、恩師寅楠が病死するが、後継社長が「会社の至宝河合小市君に対しては、十分な処遇をする」と寅楠の遺志を継いだ方針を打ち出した。
小市は、それに答え、以前にも増して仕事に励み、名実ともに技術製造部門の最高責任者として日本の楽器業界をリードしてゆくかに見えた。
大正15年(1926)、第一次大戦後の大不況のなか、労働争議史に残る大争議が浜松にも襲い、日本楽器も例外ではなかった。
生産活動が停止された日本楽器は、大打撃を受け、再建のために住友系の社長が送られてきた。
財閥資本をバックにした経営方針は、ひたすらに発明工夫を追及する小市にはなじめず、日本楽器を退社する。
昭和2年(1927)、41歳になった小市を中心にした7人の技術者がは、現在の本社所在地でもある浜松市中区寺島町に、河合楽器研究所を設立した。
低価格、高品質の「昭和型」という名のピアノを売り出し大成功を収める。
ピアノ価格の引き下げは、ピアノ普及に大きく貢献した。
昭和4年(1929)、研究所を製作所に改名し、新型ピアノアクション、ピアノ音響板など世界的に著名な発明にも成功。
その他、小型オルガン、河合ハーモニカの開発、グランドピアノの製造なども行われた。
昭和4年(1929)から昭和10年(1935年)にかけて小市がとった特許数は、15にものぼり、「楽器王」河合小市の名は不動のものになった。
第二次世界大戦が勃発するとやむなく軍需産業へ転換、その後多額の借金など苦難の時代が続くが、昭和26年(1951)、株式会社に改組し、現在の河合楽器製作所が確立した。
浜松のみならず、日本の楽器産業発展に大きく貢献した河合小市は、昭和30年(1955)、69年の生涯を閉じます。
翌年、河合楽器製作所の正面玄関に小市の胸像が建てられ、その碑文には「国産楽器製造の父。世界人類文化の母。」と刻まれた。
まさに発明に捧げた一生であった。
河合小市銅像(河合楽器本社・静岡県浜松市中区寺島町)
河合楽器ウェブサイト
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