TOP>学問

2011年05月01日

塚本明毅(つかもと・あきかた/あきたけ)・東京の偉人

江戸下谷(東京都台東区)に幕臣の子として生まれた。

天保4年(1833)10月14日‐明治18年(1885)2月5日 53歳

数学者、地誌学者。
初めて算術を系統的に解いた名著『筆算訓蒙』三巻を著し、「天下独歩の数学家」と称された。
改暦事業に携わり、太陽暦導入に尽力した。

人気ブログランキングへ

日本の『創造力』〈2〉殖産興業への挑戦

改暦事業―太陽暦採用を建議した塚本明毅

明治五年(一八七二)十一月九日、突如、改暦の詔書が下り、太陽暦を採用することになった。
それに先立つ直前、太政官権大外史であった塚本明毅による改暦を進める建議書が提出され、それが容れられたかのようであった。
実際は、新政府の財政事情を考慮して改暦を急ぐ大隈重信の指示のもと、その改暦事業の推進者として明毅に白羽の矢が立ったのであり、内田五観らの暦官を督励して、急ぎ準備を整え完了させたのである。

昌平坂学問所に学び、秀才として知られ、矢田堀景蔵、田辺太一とともに「三才子」と称された。
アメリカ艦隊来航とともにに蘭学も修め、長崎海軍伝習所第一期生に選ばれた。
修業後は幕府海軍士官、軍艦頭並として活躍するが、維新で辞職した。

明治元年(一八六八)徳川氏の静岡移転に従い、沼津兵学校教授頭取を務めた。
幕末・明治初期数学者群像〈上 幕末編〉

明治元年には塚本は病と称して榎本勢に加わらずにいたが、五月徳川駿河に移封と決まると徳川家のために働くこととなる。
そして間もなく沼津兵学校一等教授に就任した。兵学校頭取は西周であった。西周が新政府に招かれてから塚本は三年九月から沼津兵学校頭取となった。
明治二年に塚本は名著『筆算訓蒙』三巻を著わした。この本は明治五年文部省より学制領布で「算術は洋法而己」と公布したとき教科書として塚本の書を公示したのである。
文部省公示の教科書は他にも開成所出身の数学啓蒙家の算術書等があったが、塚本の本が多く利用されたのである。
初めて算術を系統的に解いた名著であって「天下独歩の数学家」と称された。
沼津兵学校の兵部省移管に伴い、新政府に出仕、陸軍少丞兼兵学大教授を経て太政官地誌課長に転じ、改暦事業を指揮、成功させた。
太陽暦採用の詔書は明治5年(1872)11月9日に突如発布され、明治5年12月3日を太陽暦の6年1月1日とすることが決まった。
それまで太陰太陽暦を用いていたが、開国とともに諸外国との交渉に不便を生じていたための改暦で、明毅は内田五観らの暦官数名を率い、十数日でこの国家的大事業を完了させたのである。

太陽暦は当時の庶民になじみがなく、新暦理解のための解説書として、福沢諭吉の著した『改暦弁』が広く読まれた。
また陽暦と陰暦の暦日対照表が必要となり、各種の対照表が出されたが、明毅の編纂した『三正綜覧』はその集大成ともいえる。「三正」とは太陽暦・太陰太陽暦・太陰暦を指し、漢の高帝元年(紀元前214年)から明治36年までの2117年間の毎月の大小、朔干支などが示されている。
『三正綜覧』は改訂を重ねて現在まで利用されている。

また明毅は、皇国地誌編纂の必要を建言して、各府県に資料を提出させ『日本地誌提要』77巻を完成させた。

にほんブログ村 歴史ブログ 偉人・歴史上の人物へ
にほんブログ村

国立科学博物館(東京都台東区上野公園7-20)


塚本明毅墓所(成覚寺・東京都新宿区新宿2-15-8)



2010年09月26日

尾藤二洲(びとう・じしゅう)・愛媛の偉人

伊予国宇摩郡川之江村(愛媛県四国中央市川之江町)生まれ。

延享4年(1747)10月8日−文化10年(1813)12月14日 

儒学者。昌平黌教授。
柴野栗山、岡田寒泉とともに寛政三博士(寛政の三助)のひとり。

廻船業者の子に生れる。
5歳のとき、右足を負傷し、その後、足が不自由になる。

大坂に出て苦学の末、私塾を開き朱子学の普及に尽くす。

寛政3年(1791)幕府に用いられて、昌平黌(昌平坂学問所)の教授となり約20年間にわたって、朱子学を再び盛んにすることに努力した。

『素餐録』『正学指掌』『称謂私言』などの著書がある。


尾藤二洲生誕地碑(愛媛県四国中央市川之江町)

尾藤二洲銅像(かわのえ高原ふるさと館・愛媛県四国中央市川之江町2217-83)

愛媛人物博物館(愛媛県生涯学習センター・愛媛県松山市上野町甲650)

尾藤二洲墓所(大塚先儒墓所・東京都文京区大塚5-39)

尾藤二洲伝 (1979年)


寛政三博士(寛政の三助)

江戸寛政年間の昌平坂学問所の儒官。

柴野栗山(しばの りつざん)・香川の偉人
岡田寒泉(おかだ かんせん)・江戸生まれ
尾藤二洲(びとう じしゅう)・愛媛の偉人

岡田寒泉にかわり、古賀精里(こが せいり)・佐賀の偉人を加える場合もある。





週刊ダイヤモンド別冊 歴学 ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち 2010年 10/17号 [雑誌]

『週刊ダイヤモンド別冊・歴学・ ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち』(2010年9月17日発売)に記事掲載しました。



クリックおねがいします!
   ↓
人気ブログランキングへ


こちらもクリックおねがいします!!
   ↓
にほんブログ村 歴史ブログ 偉人・歴史上の人物へ
にほんブログ村

2010年09月26日

尾藤二洲(びとう・じしゅう)・愛媛の偉人

尾藤二洲(びとう・じしゅう)・愛媛の偉人

伊予国宇摩郡川之江村(愛媛県四国中央市川之江町)生まれ。

延享4年(1747)10月8日−文化10年(1813)12月14日 

儒学者。昌平黌教授。
柴野栗山、岡田寒泉とともに寛政三博士(寛政の三助)のひとり。

廻船業者の子に生れる。
5歳のとき、右足を負傷し、その後、足が不自由になる。

大坂に出て苦学の末、私塾を開き朱子学の普及に尽くす。

寛政3年(1791)幕府に用いられて、昌平黌(昌平坂学問所)の教授となり約20年間にわたって、朱子学を再び盛んにすることに努力した。

『素餐録』『正学指掌』『称謂私言』などの著書がある。


尾藤二洲生誕地碑(愛媛県四国中央市川之江町)

尾藤二洲銅像(かわのえ高原ふるさと館・愛媛県四国中央市川之江町2217-83)

愛媛人物博物館(愛媛県生涯学習センター・愛媛県松山市上野町甲650)

尾藤二洲墓所(大塚先儒墓所・東京都文京区大塚5-39)

尾藤二洲伝 (1979年)


寛政三博士(寛政の三助)

江戸寛政年間の昌平坂学問所の儒官。

柴野栗山(しばの りつざん)・香川の偉人
岡田寒泉(おかだ かんせん)・江戸生まれ
尾藤二洲(びとう じしゅう)・愛媛の偉人

岡田寒泉にかわり、古賀精里(こが せいり)・佐賀の偉人を加える場合もある。





週刊ダイヤモンド別冊 歴学 ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち 2010年 10/17号 [雑誌]

『週刊ダイヤモンド別冊・歴学・ ニッポン株式会社をつくった史上最強の男たち』(2010年9月17日発売)に記事掲載しました。



クリックおねがいします!
   ↓
人気ブログランキングへ


こちらもクリックおねがいします!!
   ↓
にほんブログ村 歴史ブログ 偉人・歴史上の人物へ
にほんブログ村

2010年09月12日

伊藤圭介(いとう・けいすけ)・愛知の偉人

尾張国名古屋呉服町(愛知県名古屋市中区丸の内3-10)

享和3年(1803)1月27日−明治34年(1901)1月20日 99歳

植物学者、日本初の理学博士。

伊藤圭介1
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)



初め家業を継いでいましたが、24のときにシーボルトに出会ったことが転機となり、翌年長崎へ赴きシーボルトに師事、本草学の革新へと進みます。

師からツンベルク著の『日本植物誌』を贈られ、以後、医業のかたわらこの書の研究に没頭、これを基礎として『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を著し、リンネの植物分類法を日本にはじめて紹介、近代日本植物(本草)学に多大な影響を与え「近代日本植物学の父」と称されました。

維新後は、西洋医学病院や小石川植物園の運営にも関係し、一八八八年(明21)に日本最初の理学博士となりました。

「何事によらず、気付いたり発見したことがあったら、たとえ後日、もし誤りがあろうと、学問の進歩のために堂々と発表することが大切だ」という訓えを貫いた積極進取の学者でした。

1901年(明治34)、当時としては異例の長寿で九十九年の生涯を閉じました。

伊藤圭介2
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

伊藤圭介生誕地・双葉の碑(愛知県名古屋市中区丸の内3-10)

伊藤圭介胸像(名城小学校・愛知県名古屋市中区丸の内3-3-35 )

伊藤圭介胸像(御園小学校・愛知県名古屋市中区錦1-9-1)

伊藤圭介胸像(吹上小学校・愛知県名古屋市昭和区吹上町1-22)

伊藤圭介座像(名古屋市鶴舞中央図書館前・愛知県名古屋市昭和区鶴舞1)

伊藤圭介先生之碑(光勝院墓地・愛知県名古屋市千種区平和公園内)

旭園跡碑(愛知県名古屋市中区錦3-14)

伊藤圭介文庫

伊藤圭介記念室(愛知県名古屋市千種区東山元町・東山植物園植物会館内)

小石川植物園(東京都文京区白山3-7-1)

伊藤圭介墓地墓碑(谷中霊園・東京都台東区谷中7)


日本初の理学博士 伊藤圭介の研究
日本初の理学博士 伊藤圭介の研究





クリックおねがいします!
   ↓
人気ブログランキングへ


こちらもクリックおねがいします!!
   ↓
にほんブログ村 歴史ブログ 偉人・歴史上の人物へ
にほんブログ村

2010年09月12日

伊藤圭介(いとう・けいすけ)・愛知の偉人

伊藤圭介(いとう・けいすけ)・愛知の偉人

尾張国名古屋呉服町(愛知県名古屋市中区丸の内3-10)

享和3年(1803)1月27日−明治34年(1901)1月20日 99歳

植物学者、日本初の理学博士。

伊藤圭介1
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)



初め家業を継いでいましたが、24のときにシーボルトに出会ったことが転機となり、翌年長崎へ赴きシーボルトに師事、本草学の革新へと進みます。

師からツンベルク著の『日本植物誌』を贈られ、以後、医業のかたわらこの書の研究に没頭、これを基礎として『泰西本草名疏(たいせいほんぞうめいそ)』を著し、リンネの植物分類法を日本にはじめて紹介、近代日本植物(本草)学に多大な影響を与え「近代日本植物学の父」と称されました。

維新後は、西洋医学病院や小石川植物園の運営にも関係し、一八八八年(明21)に日本最初の理学博士となりました。

「何事によらず、気付いたり発見したことがあったら、たとえ後日、もし誤りがあろうと、学問の進歩のために堂々と発表することが大切だ」という訓えを貫いた積極進取の学者でした。

1901年(明治34)、当時としては異例の長寿で九十九年の生涯を閉じました。

伊藤圭介2
(国立国会図書館・近代日本人の肖像より)

伊藤圭介生誕地・双葉の碑(愛知県名古屋市中区丸の内3-10)

伊藤圭介胸像(名城小学校・愛知県名古屋市中区丸の内3-3-35 )

伊藤圭介胸像(御園小学校・愛知県名古屋市中区錦1-9-1)

伊藤圭介胸像(吹上小学校・愛知県名古屋市昭和区吹上町1-22)

伊藤圭介座像(名古屋市鶴舞中央図書館前・愛知県名古屋市昭和区鶴舞1)

伊藤圭介先生之碑(光勝院墓地・愛知県名古屋市千種区平和公園内)

旭園跡碑(愛知県名古屋市中区錦3-14)

伊藤圭介文庫

伊藤圭介記念室(愛知県名古屋市千種区東山元町・東山植物園植物会館内)

小石川植物園(東京都文京区白山3-7-1)

伊藤圭介墓地墓碑(谷中霊園・東京都台東区谷中7)


日本初の理学博士 伊藤圭介の研究
日本初の理学博士 伊藤圭介の研究





クリックおねがいします!
   ↓
人気ブログランキングへ


こちらもクリックおねがいします!!
   ↓
にほんブログ村 歴史ブログ 偉人・歴史上の人物へ
にほんブログ村

【広告】

サイト内検索

メンバー紹介

このサイトに自分のブログを載せたい!
(ブログの登録は無料です。)


キーワード分析