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2010年09月10日

飯沼慾斎(いいぬま・よくさい)・三重/岐阜の偉人

伊勢国亀山西町(三重県亀山市)の藩御用商人西村信左衛門の次男として生まれる。

天明2年(1782)6月10日−慶応元年(1865)閏5月5日 84歳

幕末の植物学者。
日本植物学の父。

若くして学問を志すが、父の許しを得られず家出。
美濃大垣に出て、漢方医・飯沼長顕の養子となる。

文化3年(1806)江戸に出て、宇田川榛斎(しんさい)に入門して、蘭学・医学を学び、大垣に帰り、蘭方医を開業。

天保3年(1832)50歳で家督を義弟に譲り、大垣近郊の長松村(大垣市長松町)にある別荘平林荘で、植物学の研究に専念した。
我が国最初の近代的図説である『草木(そうもく)図説』を執筆、リンネ(スウェーデンの植物学者)の分類式に準拠した分類法を行った。

『草木図説』草部20巻は安政3年(1856)から文久2年(1862)にかけて刊行され、これによりヨーロッパの植物分類法が日本に定着した。
引き続き、木部10巻を執筆するも、刊行されたのは死後百年ほど経った1977年(昭52)のことだった。

飯沼慾斎生誕之地碑(三重県亀山市本丸町)

飯沼慾斎邸跡碑、胸像(岐阜県大垣市俵町)

平林荘跡(岐阜県大垣市長松町)

飯沼慾斎顕彰碑(岐阜県大垣市郭町)

慾斎研究会

飯沼慾斎墓碑(縁覚寺・岐阜県大垣市安井町)


四季草花譜―飯沼慾斎 草木図説選 (博物図譜ライブラリー)
四季草花譜―飯沼慾斎 草木図説選 (博物図譜ライブラリー)





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2010年09月10日

飯沼慾斎(いいぬま・よくさい)・三重/岐阜の偉人

飯沼慾斎(いいぬま・よくさい)・三重/岐阜の偉人

伊勢国亀山西町(三重県亀山市)の藩御用商人西村信左衛門の次男として生まれる。

天明2年(1782)6月10日−慶応元年(1865)閏5月5日 84歳

幕末の植物学者。
日本植物学の父。

若くして学問を志すが、父の許しを得られず家出。
美濃大垣に出て、漢方医・飯沼長顕の養子となる。

文化3年(1806)江戸に出て、宇田川榛斎(しんさい)に入門して、蘭学・医学を学び、大垣に帰り、蘭方医を開業。

天保3年(1832)50歳で家督を義弟に譲り、大垣近郊の長松村(大垣市長松町)にある別荘平林荘で、植物学の研究に専念した。
我が国最初の近代的図説である『草木(そうもく)図説』を執筆、リンネ(スウェーデンの植物学者)の分類式に準拠した分類法を行った。

『草木図説』草部20巻は安政3年(1856)から文久2年(1862)にかけて刊行され、これによりヨーロッパの植物分類法が日本に定着した。
引き続き、木部10巻を執筆するも、刊行されたのは死後百年ほど経った1977年(昭52)のことだった。

飯沼慾斎生誕之地碑(三重県亀山市本丸町)

飯沼慾斎邸跡碑、胸像(岐阜県大垣市俵町)

平林荘跡(岐阜県大垣市長松町)

飯沼慾斎顕彰碑(岐阜県大垣市郭町)

慾斎研究会

飯沼慾斎墓碑(縁覚寺・岐阜県大垣市安井町)


四季草花譜―飯沼慾斎 草木図説選 (博物図譜ライブラリー)
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2010年09月08日

荒井郁之助(あらい・いくのすけ)・東京の偉人

江戸幕府代官荒井清兵衛の長男として湯島天神下上手代町(東京都文京区)に生まれた。

天保7年(1836)4月29日−明治42年(1909)7月19日 75歳

幕臣。
中央気象台初代台長。

昌平坂学問所に学び、安政4年(1857)長崎海軍伝習所に入り航海術を学んだ。

軍艦操練所頭取、講武所取締役、歩兵頭並を歴任。

慶応三年海軍奉行となり、新政府に反抗し榎本武揚とともに江戸を脱出、函館に赴くが敗北、捕らえられ江戸に送られた。

獄中で、和紙546枚、語彙3万語以上の英和対訳辞書を完成させる。

三年後出獄し、開拓使に出仕した。
明治5年(1872)3月、開拓使によって東京芝の増上寺に開拓使仮学校が開設され、学校の責任者として開拓使官吏の荒井が校長心得に就任した。
開拓使仮学校は札幌農学校の前身にあたり、荒井は現在まで21名に及ぶ北海道大学の校長・学長・総長の初代とされている。

明治10年(1877)内務省地理局の測量課長となり、気象事業に携わる。
明治23年(1890)8月には初代中央気象台長に着任するまでの間に、天気図の印刷配布、暴風警報の発表、天気予報の開始などを手掛けた。

さらに、標準時の制定(1885)、観測値の計量単位をイギリス式からフランス式に変更(1882)、皆既日食を観測し日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させた(1887)。


荒井郁之助墓所・墓碑(祥雲寺・東京都渋谷区広尾5-1-21)

荒井郁之助 (人物叢書)

流通と情報の革命 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)




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2010年09月08日

荒井郁之助(あらい・いくのすけ)・東京の偉人

荒井郁之助(あらい・いくのすけ)・東京の偉人

江戸幕府代官荒井清兵衛の長男として湯島天神下上手代町(東京都文京区)に生まれた。

天保7年(1836)4月29日−明治42年(1909)7月19日 75歳

幕臣。
中央気象台初代台長。

昌平坂学問所に学び、安政4年(1857)長崎海軍伝習所に入り航海術を学んだ。

軍艦操練所頭取、講武所取締役、歩兵頭並を歴任。

慶応三年海軍奉行となり、新政府に反抗し榎本武揚とともに江戸を脱出、函館に赴くが敗北、捕らえられ江戸に送られた。

獄中で、和紙546枚、語彙3万語以上の英和対訳辞書を完成させる。

三年後出獄し、開拓使に出仕した。
明治5年(1872)3月、開拓使によって東京芝の増上寺に開拓使仮学校が開設され、学校の責任者として開拓使官吏の荒井が校長心得に就任した。
開拓使仮学校は札幌農学校の前身にあたり、荒井は現在まで21名に及ぶ北海道大学の校長・学長・総長の初代とされている。

明治10年(1877)内務省地理局の測量課長となり、気象事業に携わる。
明治23年(1890)8月には初代中央気象台長に着任するまでの間に、天気図の印刷配布、暴風警報の発表、天気予報の開始などを手掛けた。

さらに、標準時の制定(1885)、観測値の計量単位をイギリス式からフランス式に変更(1882)、皆既日食を観測し日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させた(1887)。


荒井郁之助墓所・墓碑(祥雲寺・東京都渋谷区広尾5-1-21)

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2010年09月05日

保井コノ(やすい・この)・香川の偉人

大川郡三本松村(香川県東かがわ市三本松)生まれ。

明治13年(1880)2月16日−昭和46年(1971)3月24日 91歳

植物学者。
日本初の女性博士、女性初の理学博士。

三本松の商家に生まれ、香川師範女子部を経て、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進学、理科の第一期生として卒業した。

岐阜高女の教職時代、物理の教科書を執筆したが、「女にこれほど書けるはずがない」と文部省の役人に言われ、検定に不合格となる。
この屈辱をバネに研究生活を決意し、明治38年(1905)母校・東京女高師の研究科が新設され、研究生となった。

この時期『動物学雑誌』に発表した論文「鯉ノうぇーべる氏器ニ就テ」は、日本女性最初の科学論文とされる。

明治40年(1907)、研究科を修了して、助教授となる。

大正3年(1914)、文部省から科学分野で初の女子留学生としてアメリカに留学、ハーバード大学に学ぶ。

帰国後は、東京帝国大学の嘱託として、石炭の切片からその構造と起源植物を調べる研究に取り組み、東京帝国大学の藤井健次郎教授の指導を受けた。

大正8年(1919)、母校の教授となり、昭和2年(1927)48歳のとき「日本産石炭の植物学的研究」で理学博士号を取得し、日本初の女性博士となった。
地下深く一人で炭鉱に入り、石炭を採取し、顕微鏡で地道に観察を続けた成果であった。

研究一途の努力の一生で、多数の論文を書き、学問研究に男女差がないことを身をもって証明した。
初の女性博士として、女性研究者の希望の星で、のちに研究成果をあげた黒田チカ、吉村フジ、辻村みちよ、湯浅年子らたくさんの後輩から慕われた。

「自分の好きな道をコツコツ歩いて、名を求めず、地位も願わず、ただ自分の仕事が残ってゆけば、それだけで自分は満足できると信じております。」


先駆者たちの肖像―明日を拓いた女性たち

女たちの20世紀・100人 ―姉妹たちよ






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2010年09月05日

保井コノ(やすい・この)・香川の偉人

保井コノ(やすい・この)・香川の偉人

大川郡三本松村(香川県東かがわ市三本松)生まれ。

明治13年(1880)2月16日−昭和46年(1971)3月24日 91歳

植物学者。
日本初の女性博士、女性初の理学博士。

三本松の商家に生まれ、香川師範女子部を経て、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進学、理科の第一期生として卒業した。

岐阜高女の教職時代、物理の教科書を執筆したが、「女にこれほど書けるはずがない」と文部省の役人に言われ、検定に不合格となる。
この屈辱をバネに研究生活を決意し、明治38年(1905)母校・東京女高師の研究科が新設され、研究生となった。

この時期『動物学雑誌』に発表した論文「鯉ノうぇーべる氏器ニ就テ」は、日本女性最初の科学論文とされる。

明治40年(1907)、研究科を修了して、助教授となる。

大正3年(1914)、文部省から科学分野で初の女子留学生としてアメリカに留学、ハーバード大学に学ぶ。

帰国後は、東京帝国大学の嘱託として、石炭の切片からその構造と起源植物を調べる研究に取り組み、東京帝国大学の藤井健次郎教授の指導を受けた。

大正8年(1919)、母校の教授となり、昭和2年(1927)48歳のとき「日本産石炭の植物学的研究」で理学博士号を取得し、日本初の女性博士となった。
地下深く一人で炭鉱に入り、石炭を採取し、顕微鏡で地道に観察を続けた成果であった。

研究一途の努力の一生で、多数の論文を書き、学問研究に男女差がないことを身をもって証明した。
初の女性博士として、女性研究者の希望の星で、のちに研究成果をあげた黒田チカ、吉村フジ、辻村みちよ、湯浅年子らたくさんの後輩から慕われた。

「自分の好きな道をコツコツ歩いて、名を求めず、地位も願わず、ただ自分の仕事が残ってゆけば、それだけで自分は満足できると信じております。」


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2010年08月23日

柳沢保光(やなぎさわ・やすみつ)・奈良の偉人

柳沢保光(やなぎさわ・やすみつ)・奈良の偉人

大和郡山藩第3代藩主。

宝暦3年(1753)−文化14年(1817)1月27日 65歳

江戸時代後期を代表する知識人大名。
和歌で将軍夫人の師範を勤め、茶の湯では郡山石州流を興した。
「郡山藩中興の祖」とも称される。

「堯山(ぎょうざん)公」の称号で親しまれ、『茶会記』や『和歌懐紙 』など多くの書を残した。

柳沢家の歴代当主たちはいずれも政治手腕に優れ、学問や文芸を究めたことで知られる。
柳沢吉保(幕府大老、甲府城主)、柳沢吉里(初代郡山藩主)らを出した。

また、漢詩人・服部南郭は柳沢家に仕え、柳沢家の重臣・柳沢淇園(きえん)など文人を輩出している。

郡山藩では、この後も多くの文人を出したが、これは吉保が創設した「文武教場(ぶんぶきょうじょう)」やこれを受け継いだ吉里が郡山に設置した藩校「総稽古所」を中心に、歴代の藩主たちによる文教政策の賜物である。
柳沢家のこのような伝統は明治まで続き、明治26年(1893)奈良県一中(現奈良県立郡山高校)の創設に尽力した六代藩主・柳沢保申(やすのぶ)まで受け継がれている。

幼い頃このような柳沢家の学問を重んじる環境で育った保光は、学問のほか歌道や絵画、書道などもたしなんだ。
安永2年(1773)、21歳で家督を継いで藩主となった保光は、とりわけ茶の湯を好んだ。

大名茶人として有名な松江藩主・松平治郷(不味・ふまい)や姫路藩主・酒井忠以(宗雅・そうが)らとも親密な交友があったと伝わる。

天明4年(1784)7月、保光は石州流の奥義を究め、片桐宗幽(かたぎり・そうゆう)から奥伝の「真の台子(だいす)」の伝授を受けた。
また、千家流の詫び茶にも熱心で、多くの茶人、宗匠たちと交友をもち、他流も究明、やがて、郡山石州流とも呼ばれる石州流堯山派を興し、独自の茶の湯を後世に伝えた。

殖産にも力を入れた保光は、赤膚焼(あかはだやき)の再興、金魚の増産の奨励など、藩政にも多くの業績を残した。
また、能楽・謡曲の「郡山宝生」、華道の「甲州流」、盆石の「和州遠山流」など、保光の文化遺産が今なお郡山にその名をとどめている。
保光が「郡山藩中興の祖」と呼ばれるゆえんがここにある。

郡山城跡(奈良県大和郡山市城内町)
大和郡山のシンボルとして親しまれる。
天正8年(1580)筒井順慶により築城。
豊臣秀長時代の大増築に際し紀州根来寺の大門を城門として移築、平城京羅城門の礎石や石仏、墓石までかき集めて豪壮な石垣が築かれた。
今も天守台の後ろで逆さまに積まれた地蔵が見られる。
江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳沢藩十五万石の城下町として栄えた。
明治時代に城郭は壊されたが内堀と外堀の一部が残り、追手門、東隅櫓、多聞櫓などが復元されている。

柳沢神社(郡山城本丸跡)
祭神は柳沢吉保。

柳沢文庫(郡山城史跡・柳沢文庫保存会・大和郡山市城内町2-18)

柳沢保光墓所(月桂寺・東京都新宿区河田町2-5)






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2010年07月30日

黒澤酉蔵(くろさわ・とりぞう)・茨城/北海道の偉人

黒澤酉蔵(くろさわ・とりぞう)・茨城/北海道の偉人

茨城県久慈郡世矢村(茨城県常陸太田市)生まれ。

明治18年(1885)3月28日−昭和57年(1982)2月6日 96歳

北海道製酪販売組合連合会(現・雪印乳業)創業者
北海道酪農義塾(現・酪農学園大学)の設立者。
幼少の頃から水戸学の精神を叩き込まれ、後年キリスト教に入信、その精神生活を磐石の軌道に乗せて、わが国酪農の基礎を築き「日本酪農の父」と呼ばれる。

水戸学の影響の強い漢学塾に学び、14歳で上京。

16歳のとき、田中正造が足尾銅山鉱毒事件について直訴したことを新聞記事で見て、田中を訪問。
強烈な正義感と、人間愛の尊さ、崇高な人格に打たれ、以後、田中の秘書として働き、「小田中」とも呼ばれる。

取締り官憲に危険人物とみなされ、逮捕されるが無罪、その後も田中の秘書として働く。
田中は黒澤の将来を心配し、学問を修めるように説得され、京北中学校にまなび明治38年(1905)卒業。

卒業直前、母が死去。生活の基盤を固めて幼い弟妹を養うため、北海道に渡り、宇都宮仙太郎牧場の牧夫となる。

兵役を終えた後、宇都宮から独立。
関東大震災直後に、乳製品の輸入が自由化されると、練乳やバターがどんどん輸入され、牛乳が買い叩かれ、北海道の酪農は重大な危機を迎えた。
黒澤は、「農業のことは農民がやる」の気構えのデンマーク農業の協同主義思想を手本に、酪農民自身の手で乳製品の生産・販売を行おうと決意。

宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに大正14年(1925)、北海道製酪販売組合を設立。専務となる。
その後、組合は、産業組合法による連合会組織に改め、「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」となる。
以下、雪印歩み。
同年、バター製造を開始。
大正15年(1926)、商標を「雪印」に決定。
昭和3年(1928)、アイスクリームの製造を開始、チーズの試作開始。
昭和8年(1932)、チーズの本格製造開始。
昭和14年(1938)、マーガリンの製造開始。
昭和25年(1950)、雪印乳業(株)を設立。北海道バター(株)と分割。

乳製品の品質向上と販路の拡大につとめた黒澤は、わが国最大の乳業会社・雪印乳業を築き上げた。

黒澤は、時代を担う子供たちに酪農を学ばせるため、昭和8年(1932)「北海道酪農義塾」を設立。
のちに野幌機農学校、酪農学園大学へと発展したこの学校で、黒澤は自ら塾長となり、塾生に農民魂を吹き込もうと「健土健民」を唱えた。
「日本の国土を肥沃にすることで、国民の体も心も穏やかになっていく。それが酪農の本質である。」
この「健土健民」は、田中正造の思想を黒澤なりにまとめたもの。
この言葉は酪農学園の建学の精神に含まれるほか、雪印の創業の精神にもなっている。

晩年は田中正造全集の編纂にも携わった。

雪印バター誕生の記念館・酪聯発祥の地(北海道札幌市厚別区上野幌一条5)

黒澤酉蔵像(酪農学園大学・北海道江別市文京台緑町582)

酪農学園史

戦地と銃後の時代 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)


「健土健民」への招待






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2010年07月13日

物部長穂記念館(秋田県大仙市)

物部長穂記念館(秋田県大仙市協和境字唐松岳44-2)

電話 018-892-3500

休館日 月曜日(但し祝日の場合は翌日)、冬期間

所在地 秋田県大仙市協和境字唐松岳44-2

開館時間 9:00〜16:30

4月上旬〜11月下旬営業

料金 一般300円

物部長穂―土木工学界の巨星


物部長穂(もののべ・ながほ)・秋田の偉人

出羽物部氏の家系である唐松神社(秋田県大仙市協和境字下台)の宮司の家に生まれる。

明治21年(1888)7月19日−昭和16年(1941)9月9日 53歳

旧学位位令下で最年少の工学博士。
大正から昭和にかけての土木工学の第一人者で、日本の水理学、土木耐震学の基礎を築いた。
河川工学・ダム工学に多大な影響を与え、重力式ダムの具体的設計法を提唱するなど、土木工学の発展に寄与した。



唐松神社宮司の父・物部長元は、物部家六十代目の当主。
古代史に登場する「物部氏」の末裔である。

秋田中学、仙台第二高等学校を経て、明治44年(1911)東京帝国大学工科大学土木工学科を首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
卒業論文は、「信濃川鉄橋計画」。

鉄道院の技師となり、難工事といわれた信濃川鉄道橋の設計にあたる。
設計が完成すると、抜擢されて大正元年(1912)内務省土木局の技師となり、河川改修工事関係の実務を担当する。
物部の上司は「土木工学の父」とも称される技監・沖野忠雄で、沖野は、物部の才能を見抜き、技師の身分のまま東京帝国大学理科大学(現東大理学部)に通わせ・理論物理学を勉強させた。
物部は、ここで理学士の称号を得ただけでなく、数理解析や地震学など幅広い見識を身につけた。

その後は、内務省技師の傍ら、東京帝国大学の助教授にも就く。

当時博士を受位には20〜30年かかったが、卒業後わずか9年しか経っていない、大正9年(1920)「構造物の振動並に其の耐震性に就て」の学位論文を母校帝国大学に提出し、構造・耐震工学に多大な貢献があると認められ、工学博士の称号を得る。

大正12年(1923)に発生した関東大震災の震災状況を綿密に調査した結果を基に、翌年、論文「構造物の振動殊に其の耐震性の研究」を発表。
地震による構造物の被害をくいとめるための「耐震工学」という前人未到の学問分野を開拓した。
大正14年(1925)には、この論文が「地震学上先人未到ノ地域ヲ開発セシモノ」と高い評価を得て、帝国学士院より恩賜賞を授与された。

また、同年発表した「貯水用重力堰堤の特性並びに其の合理的設計方法」の論文により多目的ダム論を提唱、これは重力式ダム設計の基礎となり今日に引き継がれている。

ダムの耐震構造に関する基礎を築き、河川開発では、「水系一貫の河川」を説き、物部発案の「河水統制計画」論は、以後の河川開発に革命をもたらした。

現在の河川法や水資源開発促進法、特定多目的ダム法などの河川関連法規、水力電源開発計画は「水系一貫」の思想が根底にある。
このように今日に至るまで、物部の思想は、河川総合開発の基本として影響を与えている。

昭和8年(1933)に長年の研究を集大成した『水理学』、『土木耐震学』を刊行。
とくに『水理学』は、全24章580ページの大著で、執筆にあたっては、世界中の関係文献を整理するとともに、不足した部分は水理実験で補足した。
執筆に10年をかけたこの大著は、現在でも土木工学史上、不朽の名著とされており、河川や地下水などの水の流れ、降雨による流出量などの「水理学」という新しい学問を体系づけた。

地震多発国日本において、巨大土木構造物の「ダム」や今日都心部に林立する高層建築物の耐震設計理論は、物部が大正から昭和初期にかけて確立したものでる。
研究者、教育者として数多くの「世界最高水準レベル」業績を残したといわれ、土木工学の発展と子弟の教育に一生を捧げた物部は「土木工学の父」と称されている。

現在でも、土木技術者にとって物部長穂は、「神様的存在」であるという。


物部長穂生誕地・唐松神社(秋田県大仙市協和境字下台)

水理学 (1950年)






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2010年06月20日

原六郎(はら・ろくろう)・兵庫の偉人

原六郎(はら・ろくろう)・兵庫の偉人

但馬国佐曩村(兵庫県朝来市佐中)生まれ。

天保13年(1842)11月9日−昭和8年(1933)11月14日 92歳

金融・産業界の中枢的存在として活躍し、「財界の五人男」のひとり。

朝来の大地主の子として生まれる。初名は進藤俊三郎といった。

13歳の時、池田草庵の青谿書院へ入門するが、尊攘論を唱え、政治活動を学問の邪道と考える池田草庵と相容れず、青谿書院は脱退した。

生野の変(1863)に参戦するが敗れ、鳥取に逃れ、名を原六郎と改める。

その後は、長州藩の高杉晋作に会い、長州藩の守備隊に入り、討幕運動に関わった。

明治維新後、アメリカ・イギリスに留学(明治4年〜明治10年)し、経済学や銀行論を学ぶ。

帰国後、金融業界へ入り、第百国立銀行の頭取として活躍し、その手腕は世間に高く評価された。

明治16年(1883)には、経済不況の影響を受けて倒産寸前に追い込まれていた横浜正金銀行の頭取に就任、銀行改革の大事業を成功させた。
その他の金融業にあっては帝国商業銀行、台湾銀行、日本興業銀行の創設にも関与した。

また、金融業だけにとどまらず、山陽鉄道、播但鉄道、阪鶴鉄道、総武鉄道、東武鉄道、南和鉄道、九州鉄道、北陸鉄道など、鉄道事業に尽力。
さらに、東京電燈、横浜ドック、富士製紙、富士紡績、横浜水道の設備などにも尽力。

わが国の金融・産業界の中枢的存在として活躍し、渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎・古河市兵衛とともに「財界の五人男」と呼ばれた。


原六郎生家(兵庫県朝来市佐中)
生家・新藤家は、「佐中千年家」として名高い。
室町時代の1460〜1480年頃建てられたのではないかといわれ、柱や梁が太く、天井の低い造りとなっています。
使い込まれた囲炉裏、すすで深みのある色合いに染まった天井や建具、家財道具などが、この家の歴史を物語っています。

進藤丈右紀功碑(原六郎顕彰碑)・(山口小学校内・兵庫県朝来市羽渕565-2)

青谿書院(兵庫県養父市八鹿町宿南171)
「但馬聖人」とよばれた池田草庵の漢学塾。
開館日・時間とも定まってはいない。特に青谿書院資料館の見学者は事前連絡が必要。

神奈川県立歴史博物館(横浜正金銀行のあゆみ)

原美術館(東京都品川区北品川4-7-25)
旧原六郎邸を改装した現代美術館。

ハラミュージアムアーク(群馬県渋川市金井2844伊香保グリーン牧場内)
原美術館の別館。昭和25年以降の国内外の優れた現代美術作品約850点を所蔵する。

原六郎墓所(多磨霊園・東京都府中市多磨町)
多磨霊園には、原六郎銅像もある。

進む交流と機能 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)




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