黒澤酉蔵(くろさわ・とりぞう)・茨城/北海道の偉人
茨城県久慈郡世矢村(茨城県常陸太田市)生まれ。
明治18年(1885)3月28日−昭和57年(1982)2月6日 96歳
北海道製酪販売組合連合会(現・雪印乳業)創業者
北海道酪農義塾(現・酪農学園大学)の設立者。
幼少の頃から水戸学の精神を叩き込まれ、後年キリスト教に入信、その精神生活を磐石の軌道に乗せて、わが国酪農の基礎を築き「日本酪農の父」と呼ばれる。
水戸学の影響の強い漢学塾に学び、14歳で上京。
16歳のとき、田中正造が足尾銅山鉱毒事件について直訴したことを新聞記事で見て、田中を訪問。
強烈な正義感と、人間愛の尊さ、崇高な人格に打たれ、以後、田中の秘書として働き、「小田中」とも呼ばれる。
取締り官憲に危険人物とみなされ、逮捕されるが無罪、その後も田中の秘書として働く。
田中は黒澤の将来を心配し、学問を修めるように説得され、京北中学校にまなび明治38年(1905)卒業。
卒業直前、母が死去。生活の基盤を固めて幼い弟妹を養うため、北海道に渡り、宇都宮仙太郎牧場の牧夫となる。
兵役を終えた後、宇都宮から独立。
関東大震災直後に、乳製品の輸入が自由化されると、練乳やバターがどんどん輸入され、牛乳が買い叩かれ、北海道の酪農は重大な危機を迎えた。
黒澤は、「農業のことは農民がやる」の気構えのデンマーク農業の協同主義思想を手本に、酪農民自身の手で乳製品の生産・販売を行おうと決意。
宇都宮仙太郎を含む他の酪農家とともに大正14年(1925)、北海道製酪販売組合を設立。専務となる。
その後、組合は、産業組合法による連合会組織に改め、「北海道製酪販売組合連合会(酪連)」となる。
以下、雪印歩み。
同年、バター製造を開始。
大正15年(1926)、商標を「雪印」に決定。
昭和3年(1928)、アイスクリームの製造を開始、チーズの試作開始。
昭和8年(1932)、チーズの本格製造開始。
昭和14年(1938)、マーガリンの製造開始。
昭和25年(1950)、雪印乳業(株)を設立。北海道バター(株)と分割。
乳製品の品質向上と販路の拡大につとめた黒澤は、わが国最大の乳業会社・雪印乳業を築き上げた。
黒澤は、時代を担う子供たちに酪農を学ばせるため、昭和8年(1932)「北海道酪農義塾」を設立。
のちに野幌機農学校、酪農学園大学へと発展したこの学校で、黒澤は自ら塾長となり、塾生に農民魂を吹き込もうと「健土健民」を唱えた。
「日本の国土を肥沃にすることで、国民の体も心も穏やかになっていく。それが酪農の本質である。」
この「健土健民」は、田中正造の思想を黒澤なりにまとめたもの。
この言葉は酪農学園の建学の精神に含まれるほか、雪印の創業の精神にもなっている。
晩年は田中正造全集の編纂にも携わった。
雪印バター誕生の記念館・酪聯発祥の地(北海道札幌市厚別区上野幌一条5)
黒澤酉蔵像(酪農学園大学・北海道江別市文京台緑町582)
酪農学園史
戦地と銃後の時代 (日本の『創造力』―近代・現代を開花させた470人)

クリックおねがいします!
↓
こちらもクリックおねがいします!!
↓
にほんブログ村
| このブログのURL
|この記事のURL