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2011年01月22日

喜田貞吉(きた・さだきち)・徳島の偉人

徳島県那賀郡櫛淵村五拾番屋敷(徳島県小松島市櫛淵町大谷)生まれ。

明治4年(1871)5月24日―昭和14年(1939)7月3日 69歳

歴史学者、文学博士。
考古学・古代史の権威で、被差別部落研究の先駆者としても評価されている。

農民の子として生まれる。

櫛淵小学校で樋口杏斎(健三)に学び感化をうける。

徳島中学校(現徳島県立城南高等学校)、第三高等中学校(現京都大学)を経て、東京帝国大学文科大学史学科で歴史研究を学んだ。

卒業後、同大学院に進学し、国史学を専攻した。

明治42年(1909)「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得た。

はじめ文部省図書審査官となり、ついで国定教科書の編纂にも従事したが、明治44年(1911)教科書の「南北朝正閏問題」が起きたため文部省を追放。

大正2年(1913)京都帝国大学講師となり、大正9年(1920)から教授。

大正12年(1923)東北帝国大学国史学研究室の講師となり15年間勤務した。
古代史・考古学を担当。同研究室草創期の基礎を築いた。

この間、奥羽・蝦夷の研究、九州方面の研究を行い、考古学・古代史の権威とされた。

また雑誌『民族と歴史』『東北文化研究』『歴史地理』の編集にもあたった。

被差別部落研究でも知られる。
大正14年(1925)54歳のとき、被差別部落出身というだけで、秋祭りに参加できない人がいることを知り、三年かけて周囲を説得し、誰もが参加できる祭りにしたという。
このエピソードが「友情の祭りばやし」という教材にもなり、地元の中学生が創作劇にして現在でも上演され続けている。

法隆寺再建・非再建論争では、再建論を掲げ、これは後に正しいことが証明された。

喜田貞吉著作集全十四巻がある。

喜田貞吉文学博士之生家(徳島県小松島市櫛淵町大谷)

喜田貞吉胸像(櫛渕八幡神社・徳島県小松島市櫛渕町字太田1)

喜田貞吉墓所・生家の裏山にある

蘇る巨人

20世紀の歴史家たち〈1〉日本編 上 (刀水歴史全書)

歴史家喜田貞吉 (1976年)

先住民と差別―喜田貞吉歴史民俗学傑作選

古代史の先駆者喜田貞吉 (1981年) (人間選書〈51〉)

被差別部落とは何か

2007年05月04日

島根大学にロケが(島根の弁護士・松江ロケ情報)

3〜4日は、母校島根大の法文学部を使ったロケ。仲間由紀恵さん、香川照之さん、樋口可南子さん等をお見かけしました。どんな感じで使われるか、夏が楽しみで......

2006年07月12日

樋口一葉(ひぐち いちよう)・東京の偉人

東京府第二大区一小区幸橋御門内(千代田区内幸町)生まれ。

1872年(明治5年3月25日) −1896(明治29)年11月23日 24歳

小説家、作家、歌人。
近代以降では最初の職業女流作家。


【一葉の生涯】

1872(明治5)年
陰暦3月25日朝8時、樋口一葉 <本名「奈津」(なつ)>は、父・則義、母・多喜の次女として、東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)にあった東京府庁構内の武家屋敷で生まれた。
※父則義は、江戸南町奉行支配下の同心であったが、維新後の当時は、東京府庁に勤め、生活も当時では中流ぐらいの家庭に育った。

1883(明治16)年:11歳
下谷区上野元黒門町にあった私立青海(せいかい)学校小学高等科第四級を主席で修了後退学。(入学は明治14年9歳の時)
早熟で向学心の強い奈津は5歳の頃から本郷学校に入るが、幼いためすぐ退学となり、吉川寅吉が経営する吉川学校に編入した。 その後、下谷区に転居してからは、しばらく東京師範学校付属小学校に通ったが、青海学校に転校した。

1886(明治19)年:14歳
小石川安藤坂にあった中嶋歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」へ弟子入りして、ここで和歌・書道(千蔭流)・古典を学んだ。

1887(明治20)年:15歳
長兄・泉太郎、死去。

1889(明治22)年:17歳
父・則義、死去。奈津達は、一時は次兄虎之助の借家に転居するものの、母多喜と虎之助の対立は絶えなかった。虎之助は、奈津が6歳の時に分籍になっていたこともあり、彼女が家督相続人となる。

1890(明治23)年:18歳
9月末から、本郷区菊坂町七十番地を借り、母多喜と妹くにを住まわせる。自分は中嶋歌子の家に住み込みながら、母や妹とともに針仕事・洗張・蝉表造(せみおもてづくり)などの内職をして生活した。

1891(明治24)年:19歳
東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水(なからいとうすい)について、初めて小説の手ほどきを受ける。※この頃から、筆名「一葉」が使われはじめた。

1892(明治25)年:20歳
桃水の主宰した雑誌『武蔵野』に小説「闇桜」がのり、次いで萩の舎の先輩であった田辺花圃(後の三宅雪嶺夫人)の仲介で、雑誌『都の花』に「うもれ木」が連載され、これが一葉の出世作となった。

1893(明治26)年:21歳
『文學界』第三号に「雪の日」が掲載される。『文學界』によって星野天知(てんち)や平田禿木(とくぼく)、後に馬場孤蝶(こちょう)や戸川秋骨(しゅうこつ)、上田敏、島崎藤村、川上眉山(びざん)を知った。この年の7月には、生活苦を打開しようと吉原遊郭の近く下谷龍泉寺町三百六十八番地へ移り、荒物雑貨、おもちゃ、菓子などを売る小店を始めた。

1894(明治27)年:22歳
約9ヵ月で龍泉寺町の店を閉じ、本郷区丸山福山町四番地へ転居。

1895(明治28)年:23歳
1月から約一年間にわたり龍泉寺町時代の生活体験から取材した「たけくらべ」を『文學界』に連載し、この間に「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などを発表した。
※一葉は生涯で、このほか四千首に近い和歌、15歳から晩年までの日記を残した。この日記は「たけくらべ」「にごりえ」などの作品と並んで、近代文学の傑作といわれている。

1896(明治29)年:24歳
11月23日午前、肺結核のため24年の短い生涯を閉じた。
(一葉記念館HPより)


「 道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士私利をこれ事として、国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。
かひなき女子の何事を思ひ立たりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて百世の憂いを念とせざるものならず。
かすか成といへども人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生いとはず天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫も愚人も男も女も何のけぢめか有るべき。
笑ふものは笑へ。そしるものはそしれ。わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこころざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられて、やせ犬のえじきに成らんを期す。われつとむるといへども賞をまたず、労するといへどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。
いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるるべからず。去就は風の前の塵にひとし。心をいたむる事かはと、此あきなひのみをとぢんとす。 」



樋口一葉生誕地・内幸町ホール(千代田区内幸町1―5―1)

一葉記念館
現仮設展示場(台東区西浅草3-25-16,台東区生涯学習センター内)H18.8.31まで
H18.9.1〜10.31 臨時休業。
H18.11.1より新記念館(東京都台東区竜泉3-18-4)オープン。

日本銀行券・五千円券

樋口一葉墓所・築地本願寺和田堀廟所(杉並区永福1-8-1)


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