佐々木忠次郎(ささき・ちゅうじろう)・福井の偉人
福井藩士・佐々木長淳の長男として福井神明前(福井県福井市)に生まれる。
安政4年(1857)8月10日‐昭和13年(1938)5月26日 80歳
昆虫学者。東京大学初代動物学教授モースの薫陶をうけ、日本初の昆虫学を講じ、昆虫学・応用昆虫学の基礎を築いた。
東京大学養蚕学教室の初代教授で、蚕の病虫害の研究とその対策は、わが国養蚕業に大きく貢献し、「わが国近代養蚕学の開祖」と呼ばれる。
「除虫菊」の名付け親としても知られる。
東京大学在学中にモースの「大森貝塚」発掘作業に協力し、また、学友・飯島魁と「陸平貝塚」(茨城県)を(日本人による初の)発掘調査して発表、わが国考古学史上にもその名をとどめている。
父佐々木長淳は、鉄砲製造・造船など福井藩の近代化に貢献し、廃藩置県後、工部省に出仕して養蚕・製糸・紡績の新興をはかった人物として知られる。
社団法人農林水産技術情報協会ウェブサイト幼少時に福井藩士・中根雪江に漢学を学び、明治2年(1869)福井藩の創設した明新館(のち福井中学、現福井県立藤島高等学校)に入学した。
忠次郎を語るには、まず父長淳を語らねばならない。長淳は我が国に西欧の進んだ養蚕技術を紹介した最初の人である。明治6年ウィーン万博に派遣された彼は、 帰途各国を回り、養蚕の最新技術を習得した。
折しもヨーロッパでは微粒子病が蔓延、養蚕は壊滅状態にあった。蚕種・生糸の輸出を求められた明治政府が、養蚕振興に力を入れたのは当然であろう。 長淳の訪欧はこうした政府の意図によるものだった。
微粒子病はしかし、有名なフランスのパスツールによって、まもなく病因が解明される。病蚕の体内に生じる微粒子が病原体(後に原虫の胞子と判明)で、これが体内で増殖、 経卵伝染することを突きとめたのである。
パスツールは母蛾を個体別に袋に入れて産卵させ、産卵後の母蛾を顕微鏡で検定、体内に微粒子をもつ病蛾の卵を袋ごと除く方法を開発する。「袋採り採種法」である。 長淳はこの最新技術を学び帰国した。
帰国後、長淳は創設間もない勧業寮内藤新宿試験場の養蚕掛長となり、蚕病研究に従事する。当時はまだ品種改良は未発達で、病虫防除こそが緊要の技術課題であった。 長淳の研究によって、我が国にも微粒子病が存在することが明らかなり、その蔓延を未然に防ぐことができた。長淳が改良し、袋の代わりに区枠を用いた「枠製採種法」は今もほぼそのままの形で活用されている。
長淳の志は忠次郎に引き継がれた。
廃藩置県後、14歳のとき一家で上京し、開成学校に進学した。開成学校時代の仲間に、松浦佐用彦(後に共にモースの弟子となった)、東京帝国大学植物学教授となる松村任三、第五高等学校動物学教授・衆議院議員となる中川久知などがいた。
明治10年(1877)東京大学理学部生物学科に進学し、モースやホイットマンの指導を受け、明治12年(1879)には学友・飯島魁とともに陸平貝塚の発掘調査を行った。
明治14年(1881)7月、東京大学生物学科の第1回卒業生となる。
近代日本生物学者小伝卒業後、農学校(明治15年に駒場農学校となる)に勤務し、昆虫学を講じたが、これは日本で初めての昆虫学・応用昆虫学の講義であった。
東京開成学校予科を1876(明治9)年に終了した佐々木は、同学校が東京医学校と合併して東京大学となった1877(明治10)年、理学部生物学科へ進学し、初代動物学教授エドワード・S・モースの教えを受けた。動物学の道を選んだのがモ−スの影響か、彼自身の最初からの志望かは確かめようがないが、モースの感化は大であって、師を終生幕うこと、実の親に対すると同じだった。
また、兄弟弟子となった松浦佐用彦とともにモースの大森貝塚の発掘を助けたのは有名な話であり、モースが一時帰米していたあいだに大量の発掘を行なった彼ら二人の貢献は大きかった。この発掘で興味を抱いたのだろう、彼自身も1879(明治12)年7月、霞ヶ浦へ動物の採集に赴いた際に陸平(おかだいら)貝塚を発見した。その折、佐々木がモースの助言を仰いだ手紙数通が、いまセーラムのピーボディ博物館に残っている。その手紙および『東京大学法理文学部第八年報』によると、その秋と、暮から正月にかけて、1年下の飯島魁と同貝塚を発掘したことがわかる。
この陸平貝塚の発掘は日本人だけでの最初の貝塚発掘として記念すべきものであり、その成果は東京大学の刊行物『学芸志林』31号と理学部の英文紀要第1号付編に発表されている。ただし、二人とも以後は考古学から離れた。
虫と人と本と助教授、農林学校(駒場農学校と東京山林学校の合併)教授を経て、明治24年(1891)帝国大学農家大学教授となり、大正10年(1921)に退官するまで、動物学・昆虫学・養蚕学を教え、多くの昆虫学者を育てた。
卒業(1881)後、農学校、駒場農学校、東京農林学校、帝国大学農科大学、東京帝国大学農学部などの順で教壇に立ち、主として昆虫学と養蚕学を講じた。これらの教育機関はすべて同一系列に属し、発展しつつ改組されたものである。なお、1881年は佐々本の講義により日本において近代昆虫学の教育が発足した記念すべき年である。
佐々木の学風は応用面を重視するもので、害虫を飼育してその生活史を究明し、これに基づいた防除法の考案と普及に努めた。彼は多作家で著書は約30点ある。おもに農林・養蚕・衛生害虫に関するもので、代表作は『日本農作物害虫篇』(1899)と『日本樹木害虫篇』(1900)である。いずれも好評を博し、大正初めまで版を重ねた。
近代日本生物学者小伝
一方、衛生昆虫の方面では、蚊取り線香などに使われてきた除虫菊の移入者の一人であった。外国で除虫菊が虫よけに使われていることを知った彼は、1886(明治19)年、アメリカに出張する知人に依頼して種子を取り寄せた。翌年、生育した植物で除虫効果を確認したので、ある駒場農学校出身者に製粉を頼んだ。そして、その人物が蚤取り粉として売り出し、評判になって種子や苗も広まったという。「除虫菊」の名付け親でもある。ただし、これとは別に、1885(明治18)年に和歌山で栽培が始まっていたようである。
そのほか、タンニンの原料となる虫こぶをつくる五倍子虫などの有用昆虫の研究も行なった。
佐々木は、農科大学で当初水産学の講義をも受け持っていたことからわかるように、その方面にも関心があった。1893(明治26)年から数年開農商務省の水産調査委員ならびに水産調査所監督を兼務、その折に真珠の養殖状況を調査し、また自身で半円真珠の作成を試みて成功したなどの事跡もある。
虫と人と本と
佐々木は父・長淳が蚕糸関係の技術者(官吏)であったことも関係して、養蚕上の業績もいろいろある。たとえば、カイコノウジバエの生活史の解明(1886)や、微粒子病の研究などである。当時「養蚕の佐々木か佐々木の養蚕か」と称賛されたと伝えられている。そのほか、彼は中国のサクサンやテグスサン(フウサン)など、野生絹糸虫の研究と導入にも尽力していた。
さらに、モモシンクイガの生活史を研究して、その産卵を防止する「袋掛法」の端緒を開き、また米国から「除虫菊」(佐々木の命名)の種子の輸入をはかり(1885)、その栽培により「蚤取粉」の製品化を支援している。
趣味では根付を約3000個収集し、自分で図示して『日本の根付』(1936)を著した。 これは今日でも貴重な文献とされている。
佐々木はやや小柄ながら頑健であった。それで登山も趣味の一つだった。人柄は温厚篤実、恬淡素朴で辺幅をかざらず、晩年は好々爺そのものであった。理学博士、東大名誉教授、帝国学士院会員など―安政から明治・大正・昭和まで四代を生き、害虫の研究一筋で貫いたエリートとしての一生であった。
明新館跡・福井中学跡(福井県福井市大手3-4-1・放送会館)
社団法人農林水産技術情報協会ウェブサイト
陸平貝塚公園(茨城県稲敷郡美浦村土浦2359)
茨城県ウェブサイト・日本人による初の発掘調査が行なわれた遺跡、美浦村の陸平貝塚
佐々木忠次郎墓所(青山霊園・東京都港区南青山)



