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2011年10月12日

佐々木忠次郎(ささき・ちゅうじろう)・福井の偉人

福井藩士・佐々木長淳の長男として福井神明前(福井県福井市)に生まれる。

安政4年(1857)8月10日‐昭和13年(1938)5月26日 80歳

昆虫学者。東京大学初代動物学教授モースの薫陶をうけ、日本初の昆虫学を講じ、昆虫学・応用昆虫学の基礎を築いた。
東京大学養蚕学教室の初代教授で、蚕の病虫害の研究とその対策は、わが国養蚕業に大きく貢献し、「わが国近代養蚕学の開祖」と呼ばれる。
「除虫菊」の名付け親としても知られる。
東京大学在学中にモースの「大森貝塚」発掘作業に協力し、また、学友・飯島魁と「陸平貝塚」(茨城県)を(日本人による初の)発掘調査して発表、わが国考古学史上にもその名をとどめている。

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父佐々木長淳は、鉄砲製造・造船など福井藩の近代化に貢献し、廃藩置県後、工部省に出仕して養蚕・製糸・紡績の新興をはかった人物として知られる。
社団法人農林水産技術情報協会ウェブサイト

忠次郎を語るには、まず父長淳を語らねばならない。長淳は我が国に西欧の進んだ養蚕技術を紹介した最初の人である。明治6年ウィーン万博に派遣された彼は、 帰途各国を回り、養蚕の最新技術を習得した。
折しもヨーロッパでは微粒子病が蔓延、養蚕は壊滅状態にあった。蚕種・生糸の輸出を求められた明治政府が、養蚕振興に力を入れたのは当然であろう。 長淳の訪欧はこうした政府の意図によるものだった。
微粒子病はしかし、有名なフランスのパスツールによって、まもなく病因が解明される。病蚕の体内に生じる微粒子が病原体(後に原虫の胞子と判明)で、これが体内で増殖、 経卵伝染することを突きとめたのである。
パスツールは母蛾を個体別に袋に入れて産卵させ、産卵後の母蛾を顕微鏡で検定、体内に微粒子をもつ病蛾の卵を袋ごと除く方法を開発する。「袋採り採種法」である。 長淳はこの最新技術を学び帰国した。
帰国後、長淳は創設間もない勧業寮内藤新宿試験場の養蚕掛長となり、蚕病研究に従事する。当時はまだ品種改良は未発達で、病虫防除こそが緊要の技術課題であった。 長淳の研究によって、我が国にも微粒子病が存在することが明らかなり、その蔓延を未然に防ぐことができた。長淳が改良し、袋の代わりに区枠を用いた「枠製採種法」は今もほぼそのままの形で活用されている。
長淳の志は忠次郎に引き継がれた。
幼少時に福井藩士・中根雪江に漢学を学び、明治2年(1869)福井藩の創設した明新館(のち福井中学、現福井県立藤島高等学校)に入学した。

廃藩置県後、14歳のとき一家で上京し、開成学校に進学した。開成学校時代の仲間に、松浦佐用彦(後に共にモースの弟子となった)、東京帝国大学植物学教授となる松村任三、第五高等学校動物学教授・衆議院議員となる中川久知などがいた。

明治10年(1877)東京大学理学部生物学科に進学し、モースやホイットマンの指導を受け、明治12年(1879)には学友・飯島魁とともに陸平貝塚の発掘調査を行った。

明治14年(1881)7月、東京大学生物学科の第1回卒業生となる。
近代日本生物学者小伝

東京開成学校予科を1876(明治9)年に終了した佐々木は、同学校が東京医学校と合併して東京大学となった1877(明治10)年、理学部生物学科へ進学し、初代動物学教授エドワード・S・モースの教えを受けた。動物学の道を選んだのがモ−スの影響か、彼自身の最初からの志望かは確かめようがないが、モースの感化は大であって、師を終生幕うこと、実の親に対すると同じだった。
また、兄弟弟子となった松浦佐用彦とともにモースの大森貝塚の発掘を助けたのは有名な話であり、モースが一時帰米していたあいだに大量の発掘を行なった彼ら二人の貢献は大きかった。この発掘で興味を抱いたのだろう、彼自身も1879(明治12)年7月、霞ヶ浦へ動物の採集に赴いた際に陸平(おかだいら)貝塚を発見した。その折、佐々木がモースの助言を仰いだ手紙数通が、いまセーラムのピーボディ博物館に残っている。その手紙および『東京大学法理文学部第八年報』によると、その秋と、暮から正月にかけて、1年下の飯島魁と同貝塚を発掘したことがわかる。
この陸平貝塚の発掘は日本人だけでの最初の貝塚発掘として記念すべきものであり、その成果は東京大学の刊行物『学芸志林』31号と理学部の英文紀要第1号付編に発表されている。ただし、二人とも以後は考古学から離れた。
卒業後、農学校(明治15年に駒場農学校となる)に勤務し、昆虫学を講じたが、これは日本で初めての昆虫学・応用昆虫学の講義であった。
虫と人と本と

卒業(1881)後、農学校、駒場農学校、東京農林学校、帝国大学農科大学、東京帝国大学農学部などの順で教壇に立ち、主として昆虫学と養蚕学を講じた。これらの教育機関はすべて同一系列に属し、発展しつつ改組されたものである。なお、1881年は佐々本の講義により日本において近代昆虫学の教育が発足した記念すべき年である。
佐々木の学風は応用面を重視するもので、害虫を飼育してその生活史を究明し、これに基づいた防除法の考案と普及に努めた。彼は多作家で著書は約30点ある。おもに農林・養蚕・衛生害虫に関するもので、代表作は『日本農作物害虫篇』(1899)と『日本樹木害虫篇』(1900)である。いずれも好評を博し、大正初めまで版を重ねた。
助教授、農林学校(駒場農学校と東京山林学校の合併)教授を経て、明治24年(1891)帝国大学農家大学教授となり、大正10年(1921)に退官するまで、動物学・昆虫学・養蚕学を教え、多くの昆虫学者を育てた。
近代日本生物学者小伝

一方、衛生昆虫の方面では、蚊取り線香などに使われてきた除虫菊の移入者の一人であった。外国で除虫菊が虫よけに使われていることを知った彼は、1886(明治19)年、アメリカに出張する知人に依頼して種子を取り寄せた。翌年、生育した植物で除虫効果を確認したので、ある駒場農学校出身者に製粉を頼んだ。そして、その人物が蚤取り粉として売り出し、評判になって種子や苗も広まったという。「除虫菊」の名付け親でもある。ただし、これとは別に、1885(明治18)年に和歌山で栽培が始まっていたようである。
そのほか、タンニンの原料となる虫こぶをつくる五倍子虫などの有用昆虫の研究も行なった。
佐々木は、農科大学で当初水産学の講義をも受け持っていたことからわかるように、その方面にも関心があった。1893(明治26)年から数年開農商務省の水産調査委員ならびに水産調査所監督を兼務、その折に真珠の養殖状況を調査し、また自身で半円真珠の作成を試みて成功したなどの事跡もある。

虫と人と本と

佐々木は父・長淳が蚕糸関係の技術者(官吏)であったことも関係して、養蚕上の業績もいろいろある。たとえば、カイコノウジバエの生活史の解明(1886)や、微粒子病の研究などである。当時「養蚕の佐々木か佐々木の養蚕か」と称賛されたと伝えられている。そのほか、彼は中国のサクサンやテグスサン(フウサン)など、野生絹糸虫の研究と導入にも尽力していた。
さらに、モモシンクイガの生活史を研究して、その産卵を防止する「袋掛法」の端緒を開き、また米国から「除虫菊」(佐々木の命名)の種子の輸入をはかり(1885)、その栽培により「蚤取粉」の製品化を支援している。
趣味では根付を約3000個収集し、自分で図示して『日本の根付』(1936)を著した。 これは今日でも貴重な文献とされている。
佐々木はやや小柄ながら頑健であった。それで登山も趣味の一つだった。人柄は温厚篤実、恬淡素朴で辺幅をかざらず、晩年は好々爺そのものであった。理学博士、東大名誉教授、帝国学士院会員など―安政から明治・大正・昭和まで四代を生き、害虫の研究一筋で貫いたエリートとしての一生であった。

明新館跡・福井中学跡(福井県福井市大手3-4-1・放送会館)



社団法人農林水産技術情報協会ウェブサイト



陸平貝塚公園(茨城県稲敷郡美浦村土浦2359)



茨城県ウェブサイト・日本人による初の発掘調査が行なわれた遺跡、美浦村の陸平貝塚


佐々木忠次郎墓所(青山霊園・東京都港区南青山)

2011年09月19日

三好退蔵(みよし・たいぞう)・宮崎の偉人

日向国高鍋藩(宮崎県児湯郡高鍋町)藩士の三男に生れる。

弘化2年(1845)5月12日‐明治41年(1908)8月20日 64歳

高鍋藩藩士。司法官。
初代司法次官・初代検事総長・大審院長、退官後は弁護士となった。

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高鍋藩士田村極人の三男に生まれる。幼名三次郎。のちに三好靫負の養子となる。

藩校明倫堂で日高耳水に学んだ後、江戸に出て安井息軒に学び、のちに慶應義塾でも学んだ。

明治2年(1869)明治政府に出仕し、高鍋藩の少参事を務めた後、地方官や大蔵省官吏を歴任した。
三田の政官界人列伝

三好は明治2(1869)年高鍋藩に仕官し少参事兼大監察などを経て上京したが、大蔵省出仕のまま明治4年7月3日、慶應義塾に入社した。数え27歳のときのことである。
義塾は丁度、芝新銭座(現、港区浜松町一丁目)から今の三田に移ったばかりであった。机を並べ学んだものの中に猪飼麻次郎、九鬼隆一、雨山達也、矢野文雄、高嶺秀夫らがいた。三好は義塾を卒業すると司法省に移っている。
明治6年(187年)に司法省入りして、西南戦争に際し、長崎に設けられた九州臨時裁判所で権少判事として国事犯審理に関与した。

司法大書記官などを経て、明治15年(1882)大審院判事に任ぜられるとともに、伊藤博文に随行して欧州へ派遣され、裁判制度調査などに従事。

ヨーロッパ滞在中にプロテスタントのキリスト教に触れて、キリスト教に入信した。

帰国して、司法省判事となり、わが国の司法制度の創設に参画、今日の裁判所制度の基礎を築いた。

明治19年(1886)3月初代司法次官、明治23年(1890)10月検事総長に就任した。

明治24年(1891)5月11日に大津事件が発生、来遊中のロシア皇太子(のちのニコラス2世皇帝)が大津市内を人力車で通行中、巡査津田三蔵が襲って負傷させた。

外国の皇族への傷害について、皇室に対する罪を適用することに内心疑念を抱きつつも法廷では同罪の適用を主張、近代的な法治国家としてふさわしくないと主張する当時の大審院長・児島惟謙と対立した。
大津事件と明治天皇―封印された十七日間

三好退蔵検事総長(当時46歳)が犯人処罰問題に関して、当初から皇室罪を強く否定していたことは、資料的にみて、ほぼ間違いない。
「青木周蔵自伝」には、次のような箇所がある。

 児島部長等の来京に先ち、司法次官三好退蔵氏亦本件に関する要務を帯びて来京せしを以て、予は三好氏の意見を質せしに、氏も亦、/外国皇族と同一視するは、刑法の本義に非ざるべし。/と云へり。

また「林董伯自叙伝回顧録」にはこうある。

 当時閣議に与りて憲法擁護の論を確執して動かざりしは、予の知る処にては農商務大臣たりし陸奥宗光氏、大審院長たりし児島惟謙氏、司法次官たりし三好退蔵の三人なり。

同じ林董の「後は昔の記」には、次のようにある。

 大津事件の時、京都の会議に於て、独り法律の正条を守りて津田三蔵の死刑諭に反対せしは、当時の司法次官三好退蔵氏なり。又は廟論の多数と圧迫を顧みず、裁判に於て法律の正条を確守せしは、控訴院長児島惟謙氏なり。

右にある「京都の会議」というのは、・・・5月15日の「御前会議」のことである。
さらに三浦和太郎の「大津事変実験記」は、5月15日の会議の模様を次のように描写する。

 三好総長は通常謀殺論を主張したるに、一人の賛成者なく、殊に伊藤青木二氏は、主として極刑論を唱へた。三好総長日く、通常謀殺を以て論ずると、第百十六粂に依り処断するとは、僅かに刑一等の差あるのみ。伊藤伯曰く、刑一等の差は、実に重大なる結果を生ず、今若し無期徒刑に処し、露国政府より、尚一層厳刑に処するを求められんか、再び裁判を為す能はざるべく、然るときは、彼れ必ず償金又は土地の分譲等を要求するに至らん。故に初めより彼の満足する処刑を為し置くに如かずと。三好氏曰く、しかし裁判官の意見は、飽迄(あくまで)通常謀殺論である。伊藤伯曰く、果して然らば、戒厳令を布き、極刑に処せしむることとせんと。斯くて会議は、午前十時より午後六時に及び遂に極刑論に一決し、青木三好両氏より之を陛下に奏上した。

また、同じ三浦の『津田三蔵被告事件ノ始末』にはこうある。

すなわち、この会議において三好は、伊藤博文を中心とする皇室罪論者(極刑論者)に対し、執拗な抵抗を続けていたのである。会議が難航した理由は、三好総長の抵抗以外には考えにくいのである(同日の会議において、三好の意見に同調するメンバーは皆無だった点に注意)。

大津事件と明治天皇―封印された十七日間

26日(判決前日)における三好総長の役回りも、いかにも芝居がかっている。
この日午後、児島は旅宿に裁判官らを招き、「山田法相が諸君と面会したいと言っているがどうか」と問うた。結局裁判官らは、この申し出を「謝断」するわけだが、この旅宿での会合に、児島は三好総長を同席させた。

 ……三好総長を該席に伴いたるものは、故あるなり。則ち、同人職務上閣員の命令に従いあるも、其実闇々裏に余等の意見に賛同しあるを以て、両大臣の疑いを避けんが為なり。<児島第一手記より>

若干意味がとりづらいが、要するに、ここで三好は一応政府の側に立ち、判事たちに対し、「司法大臣との面会に応じられたい」と、干渉する姿勢を示したということだろう。
以上見たように、山田、児島、三好といった司法上層部においては、27日の公判以前に、「無期徒刑」という合意が成立していた。こうした「合意」は、司法上層部のみが知る高度の極秘事項であった。したがってこうした「合意」を、ただちに「司法界全体の意思」と位置づけるわけにはいかない。ただ、事件直後の司法界は、児島院長、三好総長を筆頭に、一般謀殺論でまとまっていたのであり、三好総長らの「変節」後も、基本的にはその傾向が変わることはなかった。広い意味では、やはりそうした「司法界の良識」が、右「合意」を支えていたということが言えるのではないだろうか。
結果として、松方正義内閣のロシア世論を恐れた死刑要求に対して、司法界では、司法への政治介入を排除して、普通謀殺未遂事件として取り扱い、津田に無期懲役を求刑した。

表面的には政府の側に立ちつつ、政治力に屈せず司法の権威を守り通した三好の功績は大きいといわれる。

後に司法次官に再任され、児島惟謙失脚のための陰謀ともされる弄花事件の捜査にあたるが、強引な捜査に対する批判から松岡康毅検事総長とともに更迭された。

明治26年(1893)大審院長に任命されるが、明治29年(1896)別所別判事転任拒否事件控訴審裁判長を務めた際、無罪説を主張する多数派と対立したため判決前に辞任した。
三田の政官界人列伝

三好は明治23年8月に大審院検事長(のちの検事総長)に任ぜられたが、同年9月には現職のまま貴族院議員に勅選された。初の勅選議員の選任だけに政府も慎重を期し陸海軍省を除く各省次官を貴族院議員に勅選していたが、三好の場合はポストではなく実力とこれまでの実績によるものと見られる。
・・・
三好は大審院長就任とともに貴族院議員を辞職し、「法の番人」として仕事に専念した。在任期間は3年7ヵ月に及んだが、その間日清戦争があったため、大きな事件に遭っても混乱になっていない。
たとえば下関で日清講和交渉のさなか、清国全権李鴻章が小山豊太郎に狙撃される事件が起き、一時は第二の大津事件かと大騒ぎとなったが、講和条約締結を急ぐ清国は、傷の回復が順調なのを見て交渉を再開している。
また明治28年10月、親日派が大院君を擁し、朝鮮・京城(現、ソウル)でクーデターを起こし閔妃を暗殺した。しかし翌年2月には親露派のクーデターが発生し、親日政権が倒れた。日本へ逃げ戻った首謀者岡本柳之助や黒幕の駐朝公使三浦悟楼を広島地裁の予審で取り調べた結果、証拠不十分で免訴・釈放している。
三好は明治29年第2次松方(正義)内閣成立を機に大審院長を辞職し、翌年弁護士登録し開業した。同年暮再び貴族院議員に勅選されたが、・・・死去するまでその職にあった。
退官後は弁護士となり、足尾鉱毒事件では農民側に立ったほか、日本最初の労働組合である鉄工組合の設立に賛同するなど、リベラル派の弁護士として活躍した。

東京弁護士会長やキリスト教青年会の初代理事長も務めた。

晩年は感化事業に尽くし、小崎弘道牧師を助けて、番町講義所(日本基督教団番町教会)を設立したことでも知られる。

みやざきの百一人・三好退蔵



明倫堂の碑(県立高鍋農業高校玄関脇・宮崎県児湯郡高鍋町大字上江1339-2)



萬歳亭(舞鶴公園・宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋6937-2)
明治24年三好退蔵氏の住宅を移して建てられた秋月家11代当主・秋月種樹公の住家。



日本基督教団番町教会



三好退蔵墓所(青山霊園・東京都港区南青山)


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