五畿七道とかいい、北陸道は秋田の柵まで、
東山道は多賀城に至るか知らないが、
その先となると都加留が、独立して居たらしい。
先端では、荒エミシが、ヤマトと攻防を繰り返し
南では熟エミシが農耕牧畜に励んだ。
オシラサマと馬である。
さて、この日本海と太平洋を結ぶのは、北の東西線も途中まで出来たが、
会津波、南の東西線だったであろう。ここに会津の意義があったので、
出会うオオビコとタケヌナカワワケが伝説に成って、記紀に出る。
相津の地名の由来だ。
これは当然、北陸道と東山道から会津を通って反対の路線に入るという事である。
會津派通過することに意味を見出さなくてはいけなかった。
エミシ経営のエミシ対策として、会津は中央的な、重点基地だっと事が考えられるのではないでしょうか。
それが、記紀 日本後記 続日本紀 に會津は書いてない、エミシ問題は、
会津が出んしわけです。読んでないけど。出んしけど、
鬼渡神社は、エミシ経営の扇の要に配置していたのではんしか、
となって、坂上田村麻呂よりも早くに鬼渡は会津に来たか、
全く関係内と言えるか?


