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2009年06月29日

F1チーム紹介・フォースインディア

今シーズン、唯一ポイントが獲れていないのがこのフォース・インディアF1。しかしチャンスはまだまだある。

テストエディ・ジョーダンが設立したシルバーストーンを拠点とするチームは2008年現在、フォース・インディアがオーナーシップを取っている。

2005年シーズン前、ミッドランド・グループがジョーダン・グランプリを買収。2006年から新生ミッドランドF1レーシングが、新カラーリングとロシアチームのライセンスを引っ提げてF1参戦することになった。



アレックス・シュナイダー率いるミッドランド・グループは鉄鋼、交通機関、建築、農業など幅広い事業展開で名声を上げており、自社ブランドをプロモーションするためにF1への投資と参戦を決断。

マネージングディレクターのコリン・コレスがチームをけん引し、ジェームス・キーがテクニカルディレクターに就任。ドライバーにはクリスチャン・アルバースとティアゴ・モンテイロを起用したMF1レーシングは、トヨタエンジンを載せてシーズンに挑んだ。

限られた資源の中、チームにとって苦闘の1年となった2006年シーズン。アルバースとモンテイロの2人はモナコのように時折、互角の力を証明したが、あまりに同等のパフォーマンスを披露しすぎた。ポイント獲得を目標とすることはなかったが、ライバルのトロ・ロッソと SUPER AGURIに道筋を示したかったはずだ。

開催以来、初の雨天レースとなったハンガリーGPでは、モンテイロが9位、アルバースが10位とチーム最高順位でフィニッシュ。この時すでに、チームはオランダのスポーツカーメーカーであるスパイカーと、チーム売却に関する交渉を行っている。

シーズン終盤のイタリアGPで、スパイカーがチームを買収したと発表、アレックス・シュナイダーの短いF1参戦の幕が閉じた。

2007年に向けて新生スパイカーF1となったチームは、エンジンサプライヤーとしてフェラーリと契約を結び、ジョーダン、ルノー、トヨタを渡り歩いたマイク・ガスコインを最高技術責任者として迎え、ドライバーにはアルバースとエイドリアン・スーティルを起用している。

しかし、シーズン開幕早々のモナコGPで、スパイカーがF1から撤退するとのうわさが浮上。現代においてF1チームを運営するには、小さな自動車メーカーにとって大きな負担となったようだ。しかしながら、チームはシーズンを通して進歩を遂げ、雨の日本GPで初ポイントを獲得している。

シーズン中盤にはチームメイトのルーキードライバー、スーティルとの戦いに苦悩したアルバースが更迭。ヨーロッパGPではマルクス・ビンケルホックがスーティルのパートナーを務めた。

そのヨーロッパGPでビンケルホックとチームはフォーメーションラップ後、かけに出る。悪天候が予想されていたこともあり、ピットに戻ってウエットタイヤに履き替えたのだ。それが功を奏し、雨が降り出した後にあわててピットに向かう他のドライバーを尻目に、15秒のギャップを持ってラップリーダーとなった。リスタート後にはトップチームらに抜かれ、最終的にリタイアを喫したものの、ガスコインとビンケルホックにとっては理論的な大成功と言えるだろう。

ハンガリーGPからはSUPER AGURIの元レースドライバー、山本左近がチームに加入。シーズン残りのレースで印象的なパフォーマンスを披露した。

しかしながら、2008年シーズンに向けて、チームは再びすべてを変えることとなる。ビジェイ・マルヤとミシェル・モルが『Orange India Holdings(オレンジ・インディア・ホールディングス)』を立ち上げ、チームを買収したのだ。マルヤは大幅な予算増額を約束し、レースドライバーにはスパイカー時代から続投のスーティルに加え、ベテランドライバーのジャンカルロ・フィジケラを迎える。

VJM01は2007年型マシンをベースにしており、選手権ポイント獲得を争うには十分な速さがなかった。ハイライトと言えば、結果としてはチェッカーを受けることなく、トンネル出口でフェラーリのキミ・ライコネンに衝突されて無念のリタイアだったが、トリッキーなコンディションの中、スーティルが一時4番手を走る活躍を見せたモナコGPだ。

2009年もスーティルとフィジケラは残留するが、マイク・ガスコイン(CTO/最高技術責任者)とチーム代表のコリン・コレスが解任された。

明るい話題では新たにマクラーレン・メルセデスとパートナーシップを結び、エンジン、ハイドロリック、KERS(エネルギー回生システム)の供給を受けている。

ドライバーはベテランの域に達するフィジケラと若手のスーティルのコンビ。ポイントを取れるチャンスはまだまだある。
予選
フィジケラ&スーティル
左がジャンカルロ・フィジケラ、右がエイドリアン・スーティル
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2009年06月29日

F1チーム紹介・トロロッソ

レッドブルと資本が同じの為、姉妹チームにあたるが実力もトップチームに引けを取らない。
シェイクダウン1伝統あるミナルディがついにオーストリアの飲料メーカー、レッドブルに買収され、2006年にスクーデリア・トロ・ロッソとして生まれ変わった。



ジャンカルロ・ミナルディによって創設されたミナルディは、ポール・ストッダートの尽力により2005年まで存続。F1で戦った21年間はタイトルどころか、1勝すらも挙げられなかったが、多くのファンを魅了し続けてきたことは確かである。

レッドブルからミナルディの買収が発表されたのは2005年のベルギーGPで、11月1日からは正式にチームの運営がレッドブル側に移行。トロ・ロッソの代表にはBMWにいたフランツ・トストが就任し、チームの本拠地は引き続きイタリアに置かれる。

2006年、トロ・ロッソはアメリカ人ドライバーのスコット・スピードと、元F3000チャンピオンのビタントニオ・リウッツィをレースドライバーに迎え、GP2ドライバーのニール・ヤニがテストの役目を担うと発表した。

レッドブルの2005年型マシンRB1に酷似したトロ・ロッソの初代マシンには、回転数を制限したコスワースV10エンジンが搭載され、シーズン終盤にはレースでも予選でもレッドブルをしのぐ活躍を見せている。

先頭で走ることはほとんどなく、シーズンを通してチームに負担をかけるようなスピンを喫することも多々あったが、スピードとリウッツィは堅実な仕事をした。

オーストラリアGPではスピードが8位入賞を果たし、自身とチームの初ポイントを獲得したかに思われたが、黄旗中にデビッド・クルサードを追い越したとしてペナルティを受け、ポイントはクルサードのものとなっている。遠慮のない発言をするスピードは、スチュワードから呼び出された際、クルサードに対して暴言を吐くなどして問題を起こした。

アメリカGPでリウッツィが8位に入り、チームの初ポイントをもたらしている。シーズンで1ポイントを獲得したトロ・ロッソは、デビューイヤーをコンストラクターズ選手権8位で終えた。

2007年シーズン、トロ・ロッソはフェラーリV8エンジンを載せ、リウッツィとスピードが引き続き起用することを発表。しかし、スピードの起用が発表されたのは開幕直前で、スピードとベルガー、そしてチーム代表のトストとの間に緊張が走っていることは誰の目にも明らかだった。

第10戦ヨーロッパGPまではレースに出走したスピードだったが、そのレースを最後に解雇される。何が起きていたのか詳しいことは明らかになっていないが、トストとスピードが口論した結果、F1でのレッドブルの支援が打ち切られたと見られている。

一方、リウッツィは堅実なシーズンを過ごすが、彼もまたチームから好意的に扱われることはなかった。中国GPでは6位フィニッシュを果たすも、スピードの後任としてレースドライバーに起用されていたセバスチャン・ベッテルの活躍にはおよばなかったのだ。

そのベッテルは日本GPで表彰台を狙える位置で走っていたが、セーフティカー導入中に前方のマーク・ウェバーと接触、残念ながらリタイアを喫している。富士スピードウェイでの大活躍に続き、中国GPで4位入賞を果たしたベッテル。前戦でのミスが帳消しになるほどの走りだった。

2008年はベッテルとチャンプカーのスター、セバスチャン・ボーデのコンビを起用したトロ・ロッソ。シーズン序盤は4戦連続リタイアと散々な結果だったベッテルだが、STR3パッケージが投入されたモナコGPから大きく躍進する。同シーズンのハイライトは初のポールポジション獲得に初優勝の快挙を成し遂げたイタリアGPではあるが、年間35ポイントを集めて選手権8位の結果も残している。

一方のボーデは厳しい1年を過ごしたが、4点獲得はチームのチャンピオンシップ6位という結果に貢献。ベッテルのレッドブル移籍に伴い、トロ・ロッソは2009年、ボーデとルーキーのセバスチャン・ブエミを起用。しかし現在までにやや苦しい展開を強いられている。後半戦の挽回に期待したい。
シェイクダウン2
ブルデ&ブエミ
左がセバスチャン・ボーデ、右がセバスチャン・ブエミ
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2009年06月29日

F1チーム紹介・BMWザウバー

プライベートチームがメーカーに買収され、そのチーム力を大幅に上昇させる事がある。BMWザウバーがその典型だ。
イギリスGPスイスに本拠地を構えていたザウバー・ペトロナス・チームはBMWに買収され、2006年からBMWザウバーとしてF1に参戦することになった。BMWとウィリアムズは過去5年で10勝をマーク。しかし、BMWはシーズン途中でザウバーの買収を発表した。



ウィリアムズからニック・ハイドフェルドが加入し、ジャック・ビルヌーブはザウバーからの契約を継続して残留。引き続き、BMWモータースポーツ活動をけん引することになったマリオ・タイセンは、ウィリー・ランプ率いるエンジニアリング部門のスタッフ増強と投資拡大を図った。

ランプはBMW南アフリカに1989年から1993年まで赴任、1993年にキャラミで行われたペーター・ザウバーのF1初レースに招待され、その後、 1997年にBMWに復帰するまでチームのレースエンジニアとして活躍している。2年を経て、ザウバーにテクニカルディレクターとして戻ったランプは、 BMWザウバーでも同じ役職に就くことになった。

BMWザウバーとしてF1デビューシーズンとなった2006年、チームは36ポイントを獲得し、トヨタの1つ前の5位でチャンピオンシップを終えている。

シーズンはビルヌーブとハイドフェルドの2人が互いに鍛えながら着実にポイントを獲得し、いいスタートを切っていた。しかし、ドイツGPの1周目に起きたハイドフェルドとビルヌーブの衝突に関し、ビルヌーブとチーム首脳陣が仲たがい。同グランプリが元ワールドチャンピオンの最後のレースとなった。

これにより、テストドライバーだったロバート・クビサがレースシートに座り、その後任をリクルートしたチームはF3ドライバーだったセバスチャン・ベッテルを起用。クビサは成長中のスター性を証明し、一方のベッテルが金曜フリー走行で印象的な走りを見せるなど、コンビネーションはうまくいったようだ。

ハイドフェルドがハンガリーGPで3位表彰台に上ったことに加え、クビサは自身3戦目のイタリアGPで見事3位に入った。次戦中国GPでドライタイヤに履き替えるタイミングさえ間違わなければ、クビサはさらに表彰台の回数を増やしていたことだろう。

強さを見せ付けたデビューシーズン後、2007年に向けた大きな変動もなく、シーズンに臨んだBMWザウバーは、合計101ポイントを獲得してフェラーリに次ぐ選手権2位でフィニッシュ。このシーズンにおけるチームのハイライトはカナダGPでハイドフェルドが2位表彰台に上ったことが挙げられる。その一方で、同じレースでクビサが大クラッシュを喫しており、1週間後に行われたアメリカGPを欠場するというアクシデントもあった。この年にクビサが表彰台に上ることはなかったが、初のフル参戦シーズンをドライバーズ選手権4位で終えるという結果を残している。

1年を通して着実にポイントを獲得したBMWザウバーではあるが、フェラーリやマクラーレンに挑めるほどのペースはなかった。2008年シーズンに向けて、チームは引き続きハイドフェルドとクビサのコンビと共に上位2チームとのギャップを縮めることを目標に掲げた。

その2008年シーズンは初戦オーストラリアでクビサがフロントローからスタートするという強力な形を築く。しかし、シーズン後半へと移行する中で2009年の開発に焦点をあわせたことで失速を余儀なくされている。その間、クビサはモントリオールで強力な走りを披露、自身、そしてチーム初の優勝を手にした。

クビサは同シーズンを前年度王者のライコネンと同点の4位でフィニッシュ。ハイドフェルドは問題を抱えたシーズンを過ごしたものの、チームのコンストラクターズ選手権3位という結果には十分な活躍を見せた。

レースドライバー陣の変動なく臨む2009年シーズンは常勝チームへと成長す。しかしやはりこのチームもKERSによるポテンシャル低下に苦しんでいる。後半戦はKERS非搭載で走るとしているがどれほど挽回できるか気になるところだ。
イギリスGP
クビサ&ハイドフェルド
右がニック・ハイドフェルド、左がロバート・クビサ。
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2009年06月29日

F1チーム紹介・ルノー

フェラーリ黄金時代を支えたミハエルシューマッハの一時代を終わらせたのがフェルナンド・アロンソでありそれを擁したルノーである。

イギリスGP1986年、ルチアーノ・ベネトンはトールマン・チームを買い取り、ベネトンとしてマシンを走らせ始める。マシンは当初、BMWのターボエンジンで走っており、ドライバーの能力以上の巨大なパワーを持った代物だった。テオ・ファビは、オーストリアGPとイタリアGPでポールポジションを獲得。その後、チームはゲルハルト・ベルガーによってメキシコGPで初勝利を勝ち取ることとなった。



1988年、チームはコンストラクターズで総合3位。1989年はジョニー・ハーバートとアレッサンドロ・ナニーニという素晴らしいドライバー陣を揃えた。しかし同じ年、チームはフラビオ・ブリアトーレが買収、デビュー前に起こった事故から完全に回復していなかったハーバートはすぐに解雇されている。それと同時に、ブリアトーレはチームマネジャーだったピーター・コリンズも解雇。その年のチーム唯一の好成績は、アイルトン・セナが失格となった日本 GPでアレッサンドロ・ナニーニが勝利したレースだけだった。

翌1990年はネルソン・ピケと契約。彼のキャリアの中でもかげりの見えてきた時期だったが、素晴らしいドライビングを展開した。そして、セナとプロストが接触事故を起こした日本GPでのレースで勝利を挙げている。

1991年はチームの転機となったと言えるだろう。当時ジョーダン在籍のミハエル・シューマッハが、デビューGP予選7位で人々を驚かせ、ベネトンはすぐにピケのパートナーとしてシューマッハと契約することに全力をあげた。シューマッハはF1経験の浅いスタート時からすでにその才能を開花させ、チームメイトの年輩であり、過去にワールドチャンピオンを経験したピケよりも速く、頻繁にベネトン・チームにポイントをもたらすようになったのだ。ブリアトーレはイギリスのコッツウォールドに新しい技術施設を開き、ベネトンが未来のチャンピオンを自分たちのチームから送り出すことになるであろうことを悟っていた。

ウィリアムズの圧倒的優勢状態が続いた1992年、シューマッハにとってタイトルはまだ遠い存在だったものの、デビューからちょうど一年後のスパ・フランコルシャン・サーキットで初勝利を収めたシューマッハ。

1993年、セミ・オートマチック・ギアボックスとアクティブ・サスペンション時代の到来により、チームは一気に飛躍する。しかし、モナコGPではシューマッハが若さと勢いでしリードするも、この年のウィリアムズの圧倒的支配を止めるにはいたらなかった。

トラクションコントロールが禁止された翌1994年、シューマッハが最初の2戦で勝利。その年、セナがイモラで悲劇の死を遂げた時、シューマッハにはF1 界を引っ張る次なるドライバーとして期待が向けられた。しかし、1994年はシーズンを通して、チームにとっては落胆の多い年だったと言えるだろう。チーム業績の雲行きが怪しくなり、シルバーストーンでレギュレーション違反を示す黒旗を無視したとして、シューマッハは2レースの出場停止を受けた。さらにベルギーGPで技術的な問題からの失格などが続く。そして、シューマッハは最終戦でタイトルを争うヒルと接触。論議の末、ウィリアムズのデイモン・ヒルにたった1ポイント差とは言え勝利し、初のドライバーズタイトルを勝ち取った。

1995年、ジョニー・ハーバートがチームと再契約し、2勝を挙げる。シューマッハは前シーズンの結果に甘んじることなく、シーズン通して9レースに勝利、2度目のドライバーズタイトルを獲得した。2人の活躍でベネトンにコンストラクターズタイトルがもたらされたが、これが最初で最後のタイトルとなっている。

翌1996年から、シューマッハがフェラーリ、ハーバートがザウバーにそれぞれ移籍。ベネトンはウィリアムズの支配の前に戦える状態ではなく、2人に代わってジャン・アレジとベルガーの両ドライバーがチームに参加するも、勝利をつかむまでには至らなかった。ブリアトーレはシーズン最終戦で、アレジがクラッシュを起こしたことに激怒。ベネトンはフェラーリにチャンピオンシップ2位の座を奪われてしまう。アレジとブリアトーレの災難はそこで終わらず、1997年のオーストラリアでの開幕戦では、ピットでの作業に失敗し、レース途中で燃料切れを起こしてしまった。

1998年、再び両ドライバーを入れ替え、チームは新しい風を入れる。ベルガーが引退し、アレジはザウバーに移籍した。それにより、チームは若いジャンカルロ・フィジケラとアレクサンダー・ブルツを起用。またブリアトーレ自身もラリーとツーリングカーのボスであるデビッド・リチャーズと交代させられる。新しいシーズンは当初からブルツの輝かしいドライビングが光り、フィジケラがカナダで見事な2位という成績を残したことを受け、チームの未来は保証されたように見えた。

しかし、1999年度シーズンは一転、再び災難に見舞われる。 彼らもウィリアムズ同様に、スーパーテックエンジンに切り換えたことで、常に問題が生ずる結果となり、コンストラクターズ総合6位で終わってしまった。

2000年も大幅な変化は見られなかったが、ブリアトーレがチームに復帰。彼らはB・A・Rを上回り、総合4位を飾る。そのシーズンのハイライトはフィジケラがカナダGPで3位になったことだった。ウィリアムズからレンタル移籍したジェンソン・バトンと入れ替わる形でブルツは2001年にマクラーレンに移籍、サードドライバーとなる。

ベネトンとして最後の年となったものの、チームの成績は散々たるものだった。

2000年にベネトンからF1チームを買収、2001年からエンジンサプライヤーとなっていたルノーがコンストラクターとしてF1に完全復帰した2002 年は、バトンと新しいパートナーとして、ジョーダンからやってきたヤルノ・トゥルーリの2人でシーズンに挑んだ。所々でいい活躍を見せ、コンストラクターズ総合4位で終了している。

しかし、チームボスであるブリアトーレは2003年、バトンとスペインの若きドライバー、フェルナンド・アロンソとの入れ換えを決定。また、ジョーダンやミナルディと共に、金曜日のプライベートテストオプションを受け入れることも決断している。ライバルたちと違う切り口から、勢力図の塗り替えが果たせると期待を込めた決断であった。

そして、その決断が実を結ぶ。ランキングは4位と変わらなかったものの、トップ3のチームとのポイント差はもうすぐというところまできた。ハンガリー GPではアロンソが初勝利を挙げている。ブリアトーレは2003年にアロンソを起用したことに、改めて確信を持ったことだろう。

2004年、ルノーはコンストラクターズランキングで3位に入り、シーズン前の目標を達成した。モナコGPではトップでチェッカーフラッグを受けたトゥルーリがチームに1勝をもたらし、そのほかに表彰台に5度上っている。

いつも勝利を狙えるとまではいかなかったが、信頼性の高さに恵まれ、アロンソは優れたスタートシステムを生かしてレースでポジションをアップさせていた。

2005年はブリアトーレの計画がすべてうまく運んだシーズンだったと言えるだろう。力のあるシャシーR25をフィジケラとアロンソといった実力派ドライバーが操った結果、アロンソがライバルのキミ・ライコネンを抑えて、史上最年少のチャンピオンに君臨。チームも最終戦中国GPで、し烈なタイトル争いを繰り広げてきたマクラーレンを見事に破り、コンストラクターズ選手権を勝ち取った。

こうして念願のタイトルを手中に収め、2006年もカギとなる人物がチームに残ったルノーは、再びチャンピオンシップを席巻すべくシーズンをスタートさせた。

開幕戦から3連勝を飾り、R26は見事なペースを披露。レギュレーション改訂により、2.4リッターV8エンジンに移行したルノーは、やや遅くなったように思われたものの、シーズン中盤にはタイトル間違いなしとの見方が強まった。しかし、賛否両論を呼んだ規約の再評価によって、ルノーは2005年末に初導入したマスダンパー・システムを失ったのだ。そして、その規約変更と相まって強力なライバル、フェラーリが躍進を遂げ、タイトル争いは最後の最後までもつれることとなった。

アロンソのシーズン前半戦は9戦6勝と素晴らしい結果だったが、その後は不運やトラブルによって優勝から遠ざかっている。シーズン最後から2戦目にあたる日本GPに先だって、アロンソはチャンピオンシップでミハエル・シューマッハに並ばれたが、フェラーリV8エンジンが鈴鹿で悲鳴を上げたことにより、負担が軽減されたアロンソが優勝、最終戦ブラジルGPでアロンソがドライバーズタイトルを、ルノーがコンストラクターズタイトルを獲得した。

2007年、2連覇を達成したアロンソはルノーからマクラーレンに移籍。グランプリウイナー常連とは言えないフィジケラと、F1フル参戦初年度でタイトル争いに絡める可能性はありそうもないルーキーのヘイキ・コバライネンのコンビがレースドライバーに、テストドライバーには、F1に昇格したネルソン・ピケ Jr.と長年トヨタのテストドライバーを務めてきたリカルド・ゾンタが就任した。

タイヤサプライヤーのミシュランと密接な関係を続けてきたルノーだが、この年からブリヂストンのワンメイクが始まり、1年を通してルノーが表彰台に上ったのは、わずか1度だけ。

フィジケラのシーズンは高い信頼性を持って始まったかに思えたが、中盤以降は厳しいスタートを切ったルーキーのコバライネンの方が力を見せつけ、日本GPで初表彰台となる2位という結果を出したのだ。

マクラーレンで難しい状況に直面していたアロンソを取り戻し、次シーズンに向けて再編成を行ったルノー。アロンソの新パートナーに起用されたのは2007年にテストドライバーを務めたピケJr.だ。

2008年シーズン後半戦でルノーは強力な結果を残す。序盤戦こそ精彩を欠いたR28だったが、後半6戦では今後につながる劇的な復調を遂げた。デビューシーズンを迎えて苦戦するピケJr.の一方で、古巣に復帰したアロンソはシンガポールと日本で2連勝を飾る。ルノーは終盤に大量の得点を稼ぎ、選手権4位の座を手にした。

ルノーはドライバーラインアップに変更なく、2009年シーズンに挑んでいる。
イギリスGP
アロンソ&ピケJr
左がフェルナンド・アロンソ、右がネルソン・ピケJrである。名前の通りネルソン・ピケの息子である。そして中央にいるこの人物、フラビオ・ブリアトーレだが、彼がミハエル・シューマッハを発掘し、ベネトン黄金時代を築いた立役者である。
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2009年06月29日

F1チーム紹介・マクラーレン

昨年のディフェンディングチャンピオンであるルイスハミルトンを擁するマクラーレンが今年は苦しんでいる。様々な理由があると思うが、早くトップグループのバトルへの参加を願う。

イギリスGPブルース・マクラーレンは1937年8月30日、ニュージーランドのオークランドで生まれた。最もタイトルの座に近いチームのひとつ、マクラーレンの礎を築いた人物だ。彼はドライバーとしても偉大であったが、チーム・マクラーレンがF1界に与えた影響は、さらに計り知れないものである。



ブルースは1950年代半ばから地元ニュージーランドでレースを始め、その才能はすぐに発揮された。1958年、奨学金の懸かったヨーロッパF2 レースで優勝を果たし、翌1959年にはクーパーからF1デビューを飾る。シーズンを通して安定してポイントを重ね、さらにセブリングで行なわれた最終戦アメリカGPでは、22歳104日という(当時)史上最年少の若さで初優勝を遂げている。

1960年からブルースは、ジャック・ブラバムに次いでナンバー2ドライバーとしてクーパーから参戦。そして、ブラバムは1961年末に自らのチームを発足させるため、チームを離脱した。ブラバム離脱後のクーパーでは思うような成績が残せず、ブルースはブラバムに触発される形で自らのチーム"マクラーレン・モーターレーシングLTD"を結成。成功に向かうプロフェッショナル集団として自分たちでマシン製造も手がけ、その技術は高い評判を得た。

1966年、ロビン・ハードによるデザインの初製作となったシャシーで、ついにマクラーレン・チームがF1に参戦を果たす。残念なことに初年度はパワーの劣るイタリアのセレニッシマや、重量のかさむフォードと、適切なエンジンの選択に苦しんだ。ブルースは苦戦の末、この年のイギリスGPで13位グリッドから6位でフィニッシュして、チーム初ポイントをつかみ取った。

フォード・コスワースDFVエンジンを搭載したマクラーレンM7は強力なマッチングとなり、ブルースは1968年のベルギーGPで、ついに自らのチームで初勝利を収める。友人であり、1967年のワールドチャンピオンでもあるデニス・ハルムをチームメイトとして、マクラーレンは1968年を戦った。この年はグラハム・ヒルとのチャンピオンシップ争いに最後まで食い下がったが、最終戦で敗れてしまっている。

アメリカCanAmスポーツカー・シリーズでも、ブルースとデニスのコンビは成功を収めていた。しかし、1970年6月、悲しいことにイギリスのグッドウッドで CanAmのテスト中、ブルースがクラッシュにより命を落としてしまう。しかし、今日のマクラーレン・チームにも間違いなくブルースの遺志は受け継がれている。

マクラーレンM7も好調だったが、その後発表されたマクラーレンM23は、F1の勢力図を塗り替えるに相応しいものだった。実戦投入後の1973年には、デニス・ハルムとピーター・レブソンの2人合わせて3勝を挙げている。1974年にはロータスからエマーソン・フィッティパルディが移籍。3勝した上、安定してポイントを獲得、ドライバーズチャンピオンに輝いた。チーム全体でも4勝を挙げ、マクラーレンは初のコンストラクターズタイトルを獲得している。

1975年はニキ・ラウダを擁するフェラーリに敗れ、2連覇を逃した。シーズン後にフィッティパルディはマクラーレンを去り、替わってジェームス・ハントがチームに加入。翌1976年はドラマティックなシーズンだった。最終戦日本GP(富士スピードウェイ)までもつれたドライバーズタイトルは、1ポイント差でハントがつかんだ。しかし、コンストラクターズタイトルは、ラウダがニュルブルクリンクでの大事故から劇的な復活を果たした末、フェラーリのものとなった。1977年はハントが3勝を挙げたものの、タイトル争いにからむまでには至らず。すでにマクラーレンの戦闘力は、グランドエフェクトという先端技術を施した新戦力の台頭に対し、見劣りを隠すことはできなかった。

1980年代に入ると、当時のチーム代表テディ・メイヤーは、F2プロジェクトで指揮を取っていたロン・デニスにマクラーレンのチームの一部を売却。デニスはチームの至るところで手腕を振るうようになった。またコンビを組んでいたデザイナーのジョン・バーナード設計によるカーボン製マシンMP4がF1 界に新風を巻き起こす。非力なNA(自然吸気)エンジンで奮闘していた1983年だが、マクラーレンは翌年よりTAG社のポルシェ・ターボエンジンを搭載した。

1984年、デニスはアラン・プロストとニキ・ラウダ(一時は引退していたが、1982年よりF1に復帰)という、スーパーチームと呼ぶにふさわしい布陣を手に入れる。プロストとラウダの2人はとにかく強かった。プロストが7勝、ラウダが5勝を挙げたのだ。この年、チャンピオンを獲得したのはラウダだったが、2位プロストとのポイント差はたったの0.5ポイント。お互いのポイントはラウダ72ポイント、プロスト71.5ポイントと、F1史上まれに見る接戦でのタイトル獲得だった。最終戦でタイトルを決めたラウダは、表彰台でプロストに、こうささやいたという。「チャンピオンというものはこうして獲るものだ。うまくいけば来年は君の番になるだろう」

翌1985年、プロストの圧倒的な強さによりマクラーレンはダブルタイトルを獲得。続く1986年にもプロストはチャンピオンを獲得したが、ウィリアムズ・ホンダを駆るナイジェル・マンセルとネルソン・ピケのコンビが活躍し、コンストラクターズタイトルの連取は阻まれた。

1988年はアラン・プロストとアイルトン・セナという天才ドライバー2人の布陣、そして最強のホンダエンジンを載せ、マクラーレンはまさしく究極のチームとなる。全16戦中15勝と、敵なしの圧倒的な強さを誇ったシーズン。この年はセナが自身初めてのドライバーズタイトルを勝ち取り、プロストは翌 1989年にタイトルの座を奪い返した。しかし、天才同士のチームメイト関係にはやがて亀裂が生じ、確執を招いてしまう。プロストは1989年シーズン終了後、フェラーリに移籍した。

プロストを敵に回した後の1990年と1991年、セナはプロストやマンセル等の猛追を受けながらも2年連続でタイトルを獲得。しかし、1992年、それまで最強のエンジンを提供してきたホンダがF1からの撤退を表明、翌1993年は競争力の劣る型落ちフォードエンジンでの戦いを余儀なくされた。しかし、チャンピオンマシンであるウィリアムズのシートを手に入れていたプロストや、素性の優れたベネトンを駆る新鋭ミハエル・シューマッハといった面々を相手に、セナは信じられないほどの好勝負を繰り広げたのだ。この年、セナは6年間在籍したマクラーレンへの置き土産として5勝を挙げ、ウィリアムズに移籍した。

1994年、マクラーレンはエンジンをフォードからプジョーに替え、エースとしてミカ・ハッキネンを起用。しかし、エンジンの信頼性は散々なもので、結局 1勝も挙げられずにプジョーとのパートナーシップを終えている。翌1995年はメルセデスエンジンにスイッチしたが、さらにここから2年間は未勝利で過ごす、がまんの時期となった。

1997年シーズン開幕戦、デビッド・クルサードは1993年オーストラリアGPでセナが達成して以来となるチームの勝利を、奇しくも同じオーストラリア GPで果たす。マクラーレンは確実に強さを取り戻しつつあったが、メルセデスエンジンの信頼性はまだ低く、クルサード、ハッキネン共に、勝てたレースをあと少しのところで落としてしまった。しかし、クルサードはこの年、イタリアGPで再び勝利する。一方のハッキネンは最終戦ヨーロッパGPで、ウィリアムズのジャック・ビルヌーブ(フェラーリのミハエル・シューマッハに衝突され、マシンの一部が破損していた)から譲られる形で初優勝を飾った。

1998年、マクラーレンはついに競争力を取り戻す。シーズンが始まると、ハッキネンとクルサードは次々と勝利を重ね、序盤の6戦中2人で5勝を挙げるという敵なし状態。シーズン途中からシューマッハを擁するフェラーリが追撃を始め、チャンピオン争いは最終戦までもつれ込んだ。しかし結局、ハッキネンとマクラーレンがダブルタイトルを決めている。長い低迷期を耐えたハッキネンとマクラーレンの完全復活である。

1999年も勢いは続いたが、フェラーリ復活のタイミングもまた、すぐそこまで来ていた。メカニカルトラブルやドライバーのミス、そして悪運が両チーム共に振りかかる形となる混迷のシーズンとなったのだ。結局ハッキネンが2年連続のドライバーズタイトルを、フェラーリがコンストラクターズタイトルを獲得した。

2000年シーズンはスタートと同時にフェラーリが圧倒的な強さを見せ、マクラーレンは信頼性不足との戦いを強いられる。シーズン中盤にハッキネンとクルサードは果敢な追撃を始め、周囲を期待させた。しかし、完全復活を果たしたフェラーリに対する遅れを取り戻すことはできず、シューマッハとフェラーリにダブルタイトルを奪われてしまっている。

2001年もフェラーリの強さには目を見張るものがあったが、クルサードがシーズン途中からシューマッハに対して果敢に食い下がったが、終わってみれば、大差を付けられてランキング2位という結果。この年、マシンの信頼性に苦しみ、散々なシーズンを送ったハッキネンは、2002年シーズンの休養を発表した。

ハッキネンに代わるマクラーレン・メルセデスのドライバーとして選ばれたのは、ザウバーとの契約を前倒ししてやって来たキミ・ライコネン。ライコネンは 2002年のフランスGPで、初優勝まであと数周のところで運悪く、他のマシンがまいたオイルに乗ってコースアウトし、シューマッハに勝利をさらわれてしまった。この年、マクラーレンは言語を絶する強さを見せたフェラーリはおろか、ウィリアムズにも敗れ、コンストラクターズ3位という失望的な成績でシーズンを終えている。

新車の開発失敗により、ライコネンとクルサードは2003年シーズンを旧車MP4-17Dで戦うことを余儀なくされた。しかし、この年のライコネンはトップと、わずか2ポイント差でドライバーズランキング2位という輝かしい成績を残す。チームは前年と同じ、ランキング3位の成績で終えている。

2004年シーズンのマクラーレン・メルセデスは迷走を続けた。特に前半は精彩を欠き、第7戦ヨーロッパGP終了時点で獲得したチャンピオンシップポイントはわずか5ポイントと、チーム史上ワースト記録を更新。それでもシーズン終盤には本来の強さを取り戻し、名物コースのスパ・フランコルシャンでライコネンがシーズン初優勝。そこからの巻き返しが大いに期待されたが、遅れは取り戻せず。コンストラクターズランキング5位という不名誉な結果に終わっている。

2005年のマクラーレンにはファン-パブロ・モントーヤが加わり、ライコネンとのコンビはグリッド最強のドライバーラインアップと言われた。さらに MP4-20もポテンシャルの高いマシンに仕上がったことから、掲げる目標も高かったが、開幕当初は予選でミシュランタイヤの力を引き出そうと、サスペンション・ジオメトリーに力を入れたことが裏目に出て、スタートダッシュに失敗。第4戦サン-マリノGPでどうにか体勢を立て直し、そこからは毎戦、優勝争いに絡んでいった。

そのサン-マリノGPでライコネンはドライブシャフトが壊れるアクシデントに見舞われ、優勝を逃したが、その後のスペインGPとモナコGPでは2連勝の快進撃。続くヨーロッパGPでもトップを走行し、3連勝に期待がかかったが、タイヤにできたフラットスポットが原因でサスペンションが破損、最終ラップでリタイアという憂き目にあった。しかし、ライコネンは次のカナダGPで鬱憤(うっぷん)を晴らすかのように優勝を果たし、フェルナンド・アロンソと激しいタイトル争いを展開していく。

しかし、マクラーレンはスピードでは勝るものの、信頼性ではルノーに及ばず、フランス、イギリス、そしてイタリアGPでもエンジントラブルが発生。そのあおりをもろに受けたライコネンはいく度となく10グリッド降格のペナルティを受け、勝機を逃した。一方、信頼性に問題のなかったハンガリー、トルコ、ベルギーGPでは着実に優勝を重ね、コンストラクターズ2位のポジションを死守している。

マクラーレンが最強のパッケージを手にしていたことは明白だが、チャンピオンシップではルノーに9ポイント及ばず、コンストラクターズタイトルを奪われてしまった。要因のひとつには、モントーヤがケガで2戦欠場するなどの不運も挙げられるだろう。

2006年のマクラーレンは敏腕デザイナーのエイドリアン・ニューイが離脱し、レッドブルへ移籍。オフシーズンのテストでは期待も高まっていたが、過去10年で初めてとなる1勝も挙げられないというシーズンを過ごした。

ライコネンは表彰台の常連となり、ドライバーズ選手権で5位フィニッシュとなったが、チームにとっては気楽なシーズンとは程遠いものとなったのだ。ライコネンのペースについていけず、アメリカGPではチームメイトに衝突するというハプニングを起こしたモントーヤは、2007年以降はF1キャリアに終止符を打ち、チップ・ガナッシに移籍してNASCARに転向することを発表した。これを快く思わなかったマクラーレンは即座にテストドライバーのペドロ・デ・ラ・ロサをモントーヤに代わって起用している。

ライコネンは表彰台に6度上り、デ・ラ・ロサもハンガリーGPで2位表彰台となるなどしたが、MP4-21のパッケージに苦しんだ1年だった。マクラーレンは2006年コンストラクターズ選手権を3位で終えている。

2007年に向け、フェラーリに移籍したライコネンの後任としてフェルナンド・アロンソが加入したマクラーレンは、2連覇王者のチームメイトに長年面倒を見てきたルイス・ハミルトンを起用、強力なラインアップでシーズンに挑んだ。

コース上では新加入のハミルトン、アロンソ共に4勝を挙げるなど、うまくいったシーズンだと言えるが、コース外では長い歴史を誇るチーム史上最も大荒れのシーズンとなった。

紙上では、バラ色のように見えていた2007年。シーズン開幕戦ではプレシーズンテストに続いてMP4-22がポテンシャルを発揮し、フェラーリのライコネンに次いでアロンソが2位、ハミルトンが3位という結果を出す。

アロンソが優勝を果たしたマレーシアではハミルトンが2位に入って、マクラーレンが1-2を達成。フェラーリとのタイトル争いが予想された。第4戦スペインGPで、シーズンのハイライトのひとつでもあるアロンソとハミルトンの微妙な関係が見え始める。

事態が明らかになったのは市街地サーキットで行われたモナコGPだった。アロンソが戦略面において優先されたとして、不満を述べたハミルトン。一方、モンテカルロで優勝したアロンソは、ハミルトンのマシンのノーズにナンバー2とあるからだと発言した。これについて、チームは特殊なサーキットゆえのことであり、一度限りのものだと主張している。

カナダGPでは精彩を欠いたアロンソに対し、ハミルトンは初優勝を遂げる。続くインディアナポリスでも優勝、2連勝を飾ったハミルトン。しかし、ここではハミルトンが優遇されているとアロンソが不満を口にする。

フランスとイギリスではフェラーリが圧勝したが、雨に見舞われたヨーロッパGPはアロンソが優勝。その一方で、ハミルトンの連続表彰台記録が9でストップした。

そして、ハンガリーGPでマクラーレンのお家騒動が明るみに出る。すべての始まりは予選セッションで、ハミルトンがアロンソを先に行かせなかったことだと言われている。予選Q3の最後の場面、タイヤ交換を終えてラストアタックに向かうはずのアロンソがピットを離れない。後ろにはタイヤ交換を控えるハミルトンが待機状態だった。結果、アロンソは最終アタックでポールポジションを獲得したが、ハミルトンは間に合わず。ピットを離れなかった理由として、アロンソはチームとタイヤについて議論していたと主張している。

当然ながら、調査が行われ、その結果、アロンソは5番グリッド降格処分を受けた。また、このレースはハミルトンが制し、アロンソは4位フィニッシュとなっている。

この頃、マクラーレンのデザイナー、マイク・コフランとフェラーリのナイジェル・ステップニー(解雇処分)による産業スパイ疑惑が浮上。結果はマクラーレンがフェラーリの機密情報を保持していたとの有罪判決が下され、コンストラクターズ選手権除外と、1億ドル(約115億円/当時)という記録的な罰金処分が科されている。

一方、コース上ではハミルトンがチャンピオンシップリーダーとなっていた。トルコGPではフェラーリが1-2を飾り、3位にはアロンソが入ったが、ハミルトンは5位でチェッカーを受けている。続くモンツァではアロンソが優勝、ハミルトンが2位。スパ・フランコルシャンのスタートではアロンソ対ハミルトンのバトルが繰り広げられるが、最終的にレースを制したのは再び1-2を決めたフェラーリだった。

大荒れとなった富士スピードウェイでのレースでは、ハミルトンがライバルをよそ目にシーズン4勝目を挙げる。この時、ハミルトンはランキング3位のライコネンに17ポイントの差をつけていた。

しかし、中国GPではタイヤ交換のタイミングを誤り、リタイアを喫してしまったハミルトン。この結果により、ドライバーズ選手権三つ巴の戦いはシーズン最終戦ブラジルGPにもつれ込むことになった。

その最終戦のオープニングラップで順位を落としたハミルトンは、さらにギアボックストラブルに見舞われ、大きくポジションを下げる。チャンピオン獲得には 5位以内でフィニッシュすればいいという状況だったため、まだ世界王者の可能性は残されていた。しかしながら、3ストップ戦略への変更も意味をなさず、ペースで劣るマシンの後方で時間を費やし、ハミルトンのタイトル獲得の可能性が徐々に低くなっていく。最終的にレースを制したライコネンがドライバーズタイトルを獲得、ハミルトンとアロンソは同点の109ポイントで2位と3位という結果だったが、チャンピオンに輝いたライコネンとの差はわずか1ポイントだった。

シーズン終了後に発表されたアロンソのマクラーレン離脱に驚きはなかったと言えるだろう。さまざまなドラマがあった2007年だが、競争力の面ではマクラーレンにとっては大きなステップとなった1年だった。

2008年シーズンはハミルトンの新チームメイトにヘイキ・コバライネンを起用。ルノーから移籍したコバライネンは後のハンガリーGPで自身初の優勝を経験する。

タイトルを目指して戦ったハミルトンは5勝を挙げたが、上位バトルは接戦だった。シーズン最終戦ではライバルのマッサが優勝し、一方のハミルトンはコンディションに苦戦する。実際、ハミルトンは最終ラップを残して6番手を走行、そのままでは世界王者の称号が手に入ることはなかった。しかしながら、運命の最終ラップで路面状態に苦悩するティモ・グロック(トヨタ)をかわし、ハミルトンがチャンピオンシップ制覇を成し遂げたのだ。

長らくチームを率いてきたロン・デニスが代表の座をマーティン・ウィットマーシュに譲る2009年、ハミルトンはカーナンバー1をつけたMP4-24で連覇を目指すのだが・・・・ご覧の通りの結果となっている。これらの原因についてまた別の機会に語ろうと思う。

イギリスGP
コバライネン&ハミルトン
左がヘイキ・コバライネン、右がルイス・ハミルトン
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2009年06月29日

F1チーム紹介・ウィリアムズ

セナが最後に乗っていたマシンであり、今年日本人ドライバー中島一貴が乗り込むのがこのウィリアムズだ。その強さはプライベートチームである事を忘れさせてくれる。
イギリスGPウィリアムズチームの創立は1970年代と、歴史はやや浅いが、今や古株であるフェラーリやマクラーレンと肩を並べる強豪チームだ。わずかな資金からスタートし、プライドと威信を懸けて戦い、多くの勝利をつかみ取ってきた。1997年には9度目のコンストラクターズタイトルを獲得している。



チームを率いるフランク・ウィリアムズ代表は数々の逆境に立ち向かい、そして乗り越えて生きてきた人物。若き日のウィリアムズ代表はドライバーとしての参戦経験もあったが、活路を見いだすことはできていない。そんな中、当時イギリスの新鋭ドライバーだったピアース・カレッジと親交を深め、1969 年に共同でチームを興した。翌1970 年、ウィリアムズ代表はデ・トマソ製のマシンでピアースを走らせていたが、ジャック・ブラバムが当時見せつけていた速さに立ち向かうには至らず。その年のオランダGPでピアースが炎上事故による悲劇の死を遂げ、ウィリアムズ代表は途方に暮れてしまった。山のような負債が残り、叶えるべき希望も失ってしまった状態だったのだ。

ウィリアムズ代表はカナダの資産家ウォルター・ウルフとチームを組んで再起を計ったがうまくいかず、苦みは増すばかりだった。しかし、ここで新進エンジニアのパトリック・ヘッドを擁してウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリングを設立。舞台は整った。

ウィリアムズ代表がチームを支援してくれるサウジアラビア人たちとの交渉事に奔走していた1978年。ヘッドのデザインによるFW06のパフォーマンスが、アラン・ジョーンズのドライブによって発揮されるようになる。FW07を駆るクレイ・レガッツォーニが1979年のシルバーストーンで優勝を果たし、ウィリアムズ念願の初勝利が訪れた。続いてジョーンズも勝利を挙げ、ウィリアムズの快進撃が始まる。

1980年、ジョーンズのチームメイトとして迎えられたのは、アルゼンチンの英雄カルロス・ロイテマン。この年はジョーンズが安定した走りを繰り返し、ドライバーズとコンストラクターズのダブルタイトルを獲得した。翌1981年もチームはタイトルを獲得したが、ジョーンズはブラバムの若手ドライバー、ネルソン・ピケに敗れ、引退の時を向かえる。

1982年、この頃からターボが時代を席巻し始める。しかし、ケケ・ロズベルグはフォード・コスワースというノンターボエンジンを積んだウィリアムズに乗って、表彰台フィニッシュを繰り返した。コンストラクターズタイトルはフェラーリの手にわたったものの、ロズベルグは年間わずか1勝ながら、見事にドライバーズタイトルを獲得している。

1983年からはホンダとの接触により、ターボエンジンの搭載が始まった。V6ターボエンジンは、まだ重く荒いものだったが、時間をかけて改良が施される。1986年にまで時が進むと、最強の座は欲しいがままになった。そしてチームは再びコンストラクターズタイトルを取り戻す。しかし、最終戦オーストラリアGPでナイジェル・マンセルが18周目にタイヤバーストによりリタイア、このレースで優勝したアラン・プロストにドライバーズタイトルを奪われてしまった。

この年、ウィリアムズ代表はポールリカール・サーキットから帰宅する運転途中で交通事故に遭い、下半身不随となって車椅子での生活を余儀なくされている。

それでも、1987年のウィリアムズも最強だった。ピケとマンセルがFW11のステアリングを握り、自分のチームで至上のバトルを繰り広げてくれる様子を車椅子から眺めていたウィリアムズ代表は、心の底から楽しんだ。そしてチームはドライバーおよびコンストラクター2度目のダブルタイトルを獲得している。

翌1988年、ピケはロータスに移籍し、チームは優れたドライバーを1人失ってしまう。また、この年からはホンダエンジンさえも失い、散々なシーズンとなった。

苦しみ抜いた翌年の1989年からはルノーエンジンを獲得し、新たなスタートを切る。マシンの性能は優れていたが、マンセルがチームに戻る1991年まで地味なドライバーを抱え、がまんを強いられている。マンセルはその2年間、フェラーリに在籍した。

そして1991年、ウィリアムズ代表が用意したFW14は素晴らしいマシンだったが、マンセルのマシンにはギアボックストラブルが相次ぎ、マクラーレンのアイルトン・セナに敗北を喫してしまう。しかし、翌1992年には開幕5連勝を含む16戦9勝と圧倒的な強さでマンセルとウィリアムズがダブルタイトルを獲得。"無冠の帝王"と呼ばれ続けたレッド5、ナイジェル・マンセルに初の栄冠がもたらされた。

1993年、猛烈なウィリアムズのシート争奪戦の末、マンセルはインディ選手権に移籍した。したがって、マンセルがカーナンバー1をつけて走ることは一度も実現していない。替わってシートに収まったのはアラン・プロスト。プロストの計算高い走りで、この年もチームは、ずば抜けた強さを見せて2年連続のダブルタイトルを獲得した。

ウィリアムズ代表はセナに初めてF1マシンをドライブする機会を与えた人物だ。ウィリアムズ代表は、かねてからセナのチーム加入を切望し、ついに1994 年シーズンにセナとの契約が成立。しかし、悲劇が起こった。第3戦サン-マリノGPでセナがレース中の事故でこの世を去ったのだ。突然訪れた悲しみが、ウィリアムズ代表に、そしてチーム全体に大きな影を落とした。だが、F1は悲しみを受け止めなければならない。セナ亡き後はデイモン・ヒルがチームのエースとなった。失望を乗り越え、セナと同じマシンでミハエル・シューマッハに挑んでいくヒルの勇敢な走りは、悲しくもファンに感動を与えるものだった。結局、最終戦でシューマッハと接触、両者リタイアしたことによりヒルのドライバーズタイトル獲得は叶わなかったが、チームにはコンストラクターズタイトルがもたらされている。

1995年には当時のライバル、ベネトンにも同じルノーエンジンが積まれるようになった。素晴らしい活躍を見せたシューマッハに舌を巻いたばかりでなく、チームの戦略も後手後手に回りヒル4勝、そしてデビッド・クルサード1勝と、この年ウィリアムズの勝利数は5回にとどまっている。

1996年は前年に比べてはるかに良い年となった。インディからやって来たジャック・ビルヌーブと、デイモン・ヒルの2人で16戦中12勝を挙げる。ヒルは念願のドライバーズチャンピオンを獲得し、ジャックも2位で続いた。ウィリアムズ代表は8度目のコンストラクターズチャンピオンの栄冠を手に入れたのだ。

デイモン・ヒルはシーズンが終わると同時にチームを離れ、1997年はビルヌーブのパートナーとしてハインツ-ハラルド・フレンツェンが加わった。フェラーリのシューマッハが最後までタイトルの座を脅かしたものの、ウィリアムズは2年連続のダブルタイトルを獲得。チームのタイトル獲得回数は、これで9回となった。

残念なことに、1998年と1999年シーズンはちょっとした災いの時期を過ごすことになったウィリアムズ。ルノーがF1から一時撤退し、チームはエンジンパワーの劣るスーパーテックエンジンを積んで戦わなければならなかったのだ。1998年は序盤からマクラーレンが黄金時代を彷彿とさせる圧倒的な強さで、ダブルタイトルを獲得した。失望のシーズン終了後、ビルヌーブはティレルの流れを受け継いだ新チームB・A・Rに移籍。そしてフレンツェンはジョーダンに移り、ウィリアムズを離れた。

1999年にウィリアムズ代表はビルヌーブの抜けた穴を埋める存在としてCARTチャンピオン、アレックス・ザナルディと契約を交わし、チームメイトにはラルフ・シューマッハが抜擢される。ザナルディはウィリアムズ代表の期待に応える走りを見せることができず、シーズンをノーポイントで終えてしまった。しかし、ラルフは何度か表彰台に上る活躍を見せている。しかし、チームの戦闘力は十分でなく、チームは過去10年で最低の成績となるコンストラクターズランキング5位でシーズンを終えた。ザナルディは2000年1月をもってドライバー契約が終了し、チームを離脱している。

ウィリアムズがザナルディの後釜として選んだのは、若干20歳の才能溢れるイギリス人、ジェンソン・バトンだった。また、2000年からBMWとのパートナーシップも開始。BMWエンジンを積んで両ドライバーとも善戦していたものの、シーズン中盤の伸び悩みが響き、チームのコンストラクターズランキングは辛くも3位を確保するにとどまった。この年見せたバトンの走りは目覚ましいものだったが、ウィリアムズ代表は苦渋の選択を迫られる。バトンを残すか、それともコロンビアのスーパースター、ファン-パブロ・モントーヤをチームに引き入れるか、だ。ウィリアムズ代表が選んだのは後者だった。バトンはベネトンに 2年間のレンタル移籍。どんな結果でも、後悔のないようにと下した決断だった。

2001年、コロンビアからやって来た新人ファン-パブロ・モントーヤは登場してすぐさまF1界を震撼させる。モントーヤはマシンの信頼性に悩まされてはいたものの、ポールポジションと表彰台フィニッシュを何度も獲得してみせた。そしてイタリアGPではポール・トゥ・ウインを果たし、遂に初勝利を挙げる。チームメイトのラルフと合わせてウィリアムズは4勝をあげ、ライバルのマクラーレンと熱い争いを演じたが、この年はコンストラクターズランキング3位で終えた。

2002年はマクラーレンに競り勝ち、コンストラクターズランキング2位で終了。しかいs、別次元の走りを見せたフェラーリに立ち向かうことはできなかった。ドライバーズランキングではモントーヤが3位、ラルフが4位の成績となっている。

2003年も2人のドライバー体制は継続、ついにフェラーリとのギャップを埋めることになった。コンストラクターズチャンピオンの座を懸けた戦いは最終戦日本GPまでもつれたが、結果は2位。

好むと好まざるとにかかわらず、BMWウィリアムズの2004年は結果ではなく、シーズン中盤で姿を消した"セイウチノーズ"の年として語られることになるだろう。5年間共に戦ってきたBMWとウィリアムズF1チームのパートナーシップだが、まだフェラーリに対抗し得るパッケージを生み出せずにいた。

モントーヤがBMWウィリアムズでの最後のレースで勝利を挙げ、苦しかったシーズンの最後に大きな花火を打ち上げる。表彰台フィニッシュは4回、コンストラクターズランキングは3位のルノーに17ポイント差をつけられ、4位に終わった。ちなみに、ウィリアムズが最後にタイトルを獲得した 1997年にエンジンを供給していたのがルノーである。

2005年のウィリアムズはドライバーラインアップを一新。レースドライバーにマーク・ウェバーとニック・ハイドフェルド、テストドライバーにアントニオ・ピッツォニアという顔ぶれで臨んだ。チームはシーズンを通してFW27にさまざまな空力パーツを投入したが、結果にはつながらず、苦しい1年を過ごしている。そんな中、ハイドフェルドが2位、ウェバーが3位に入り、ダブル表彰台を獲得したモナコGPは唯一のハイライトだったと言えるだろう。また、コンストラクターズランキング5位という順位もチームの期待とはかけ離れていた。

2005年シーズン途中、BMWはザウバーを買収、ウィリアムズを離れて自チームを結成することを表明。そのため、ウィリアムズは2006年に向けてコスワースとエンジン供給契約を交わしている。それにより、ウィリアムズ・コスワースFW28のパッケージが2006年シーズンの"ダークホース"になるとの予測も浮上していた。書類上は、コスワースV8エンジンがF1における最良エンジンだったのだ。そして、チームはGP2チャンピオンのルーキー、ニコ・ロズベルグと契約、ウェバーが残留して王者を目指すことになった。

しかしながら、ウィリアムズにとって2006年は悲惨なシーズンとなり、ポイント獲得数はウェバーが7点、ロズベルグが4点で合計わずか11点。コンストラクターズ選手権では8位フィニッシュという結果に終わっている。シーズン開始当初は、ロズベルグがF1デビューレースとなった開幕戦バーレーンGPで2 ポイントを獲得し、さらにファステストラップを記録するなど、輝かしいスタートだったが、これがシーズンのハイライトとなってしまったのだ。ウィリアムズ・コスワースは無数の信頼性問題に苦しみ、パワープラントにおける制限的なマイレージが、各レースのタイム面でロズベルグを苦しめることとなった。

ウェバーは3回の入賞を果たしたが、シーズン終了前に2007年にレッドブルへ移籍することを発表。サム・マイケルがファクトリーでの活動に戻ったことで、ヘッドが最終戦ブラジルGPに向けてパドックに復帰した。

コース上では扱いにくいマシンと共に、ジェットコースターのように浮き沈みの激しいシーズンを過ごしたロズベルグが、ブラジルGPでチームメイトのウェバーに接触、2台そろってオープニングラップでリタイアを喫している。

そんなウィリアムズは2007年に向けて、チームのタイトルスポンサーに新たにAT&Tを迎え、エンジンサプライヤーとしてトヨタと契約を交わした。ドライバーには残留したロズベルグと、テストドライバーから昇格したアレキサンダー・ブルツを起用して戦いに挑んだ。

この年、ウィリアムズはロズベルグとブルツが合計33ポイントを獲得し、コンストラクターズ選手権を4位でフィニッシュ。ロズベルグはシーズンを通して力強いレースを展開し、シーズン後半は入賞常連となった。また、最終戦ブラジルGPでは自身最高位となる4位でチェッカーを受けている。一方、ブルツはレース復帰を果たすも、なかなか結果を出せず、特に予選で苦悩した。それでも、カナダGPでは同年のチーム唯一の表彰台を記録している。しかし、この結果は十分と言えず、最終戦はトヨタの支援を受けていた中嶋一貴がブルツの代わりに出走した。

2008年シーズン、ウィリアムズはロズベルグと中嶋のコンビで挑むと発表。

開幕戦でロズベルグがF1初の表彰台に上り、後のシンガポールGPでも表彰台でシャンパンを味わったが、チームにとっては2008年もまた厳しいシーズンとなった。腕を磨いた中嶋がロズベルグに挑むことも多くなったものの、FW30は優勝を争うこともなく、26ポイント獲得の8位でシーズンを締めくくっている。
イギリスGP
ニコ&ナカジマ
左がニコ・ロズベルグ、右が中島一貴。お気づきかも知れないが二世ドライバーコンビである。ニコの父親もケケ・ロズベルグという往年の名ドライバー。
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2009年06月29日

F1チーム紹介・フェラーリ

どんなスポーツでもそうだが「なくてはならない存在」がある。それがフェラーリだ。なじみの無い方にも判りやすく言えば「ジャイアンツ」のような存在である。

テスト走行フェラーリは昔も今も、そしてこれからも変わらない。F1で最も有名なチームとして、1990年にマクラーレンが跳ね馬を脅かすまで、どこより優勝回数では成功したチームだったと言えるだろう。フェラーリは1999年シーズンにコンストラクターズタイトルをその手に取り戻した。

フェラーリの歴史は1950年にワールドチャンピオンシップ初参戦にさかのぼる。以来、エンツォ・フェラーリはその力強さを見せ続けてきた。最初の年こそ結果に恵まれなかったが、翌1951年はアルベルト・アスカリとホセ・フロイラインがアルファロメオと争い、最終レースではファン-マヌエル・ファンジオに迫る戦いを見せる。アスカリは1952年、1953年を優位に進めるも、1954年は2500CCエンジンを取り入れたマセラティとランチアに敗北。 1955年終盤で、D50で走るファンジオが3勝を決め、ランチアから首位を奪い、自身4度目のタイトルをものにした。しかし1957年、不運にもファンジオはマセラティに移籍。 アルゼンチンのエースを失い、フェラーリの苦悩は続いた。



1958年、新しくエンツォの息子であるディーノの名前から命名したTipo146が登場し、フェラーリはF1界に復帰。その年、多くのファンがスターリング・モスこそがチャンピオンにふさわしいと感じていたが、惜しくもタイトルはマイク・ホーソーンに奪われ、シーズンを終了している。

その後の2年は、クーパー・チームの圧倒的支配の前に敗れるも、1961年、復讐に燃えるフェラーリは1500CCエンジンのTipo156"シャーク・ノーズ"で見事に復活を遂げる。しかし悲劇は突然訪れた。チームだけでなく、F1界にも巨大な影響力を持っていたドライバー、ウォルフガング・フォン・トリップスがイタリアGPで事故により落命。チームに衝撃が走る中、チームメイトだったフィル・ヒルがチームのために勝利をもぎ取った。

1964年、ジョン・サーティースによってフェラーリに2度目のタイトルがもたらされる。彼は2輪と4輪、両方のチャンピオンシップに勝利した唯一の人間としても有名。

1966年、チームは3000CCエンジンを導入、再びその挑戦に苦しむことになった。翌1967年はコスワース・スーパーDFVで戦い抜く。そこから8 年間、フェラーリはF1チームの中ではよくて中堅チームでしかなかった。ジャッキー・イクスによる成功に加え、1970年はそのチームメイト、クレイ・レガッツォーニのイタリアGP勝利などが挙げられる。

未経験だったが速さには定評があったニキ・ラウダが1974年にチームに加入。そのシーズンは、エマーソン・フィッティパルディ率いるマクラーレンに敗れるが、翌1975年にはタイトルを奪取している。ラウダはニュルブルクリンクでの大事故さえなければ、再び勝っていただろう。しかし事故の影響から、チームメイトのジェームス・ハントにも敗れてしまった。1977年、ニキ・ラウダは再びフェラーリで勝利を挙げている。

1979年はジョディ・シェクターがチームにタイトルをもたらし、ミハエル・シューマッハの出現まで、ドライバーズタイトルをもたらしたフェラーリ最後のドライバーだった。シェクターはチームメイトのジル・ビルヌーブをも破っている。

1979年シーズン後半は、ウィリアムズのアラン・ジョーンズより312T4が目立った活躍を見せた。しかし、翌1980年シーズンのT5は大失敗に終わる。

この頃から1500CCターボエンジンが姿を見せるようになった。1981年シーズンからフェラーリは126Cもプロデュースしている。そしてジル・ビルヌーブがそのマシンで、モナコとハラマ両方を接戦の末に勝利を収めた。チームはイギリス人デザイナー、ハーヴェイ・ポストレスウェイトを雇い、1982年に126C2をデザイン。しかし、悲劇はもう一度繰り返され、今度はジル・ビルヌーブがゾルダー・サーキットで予選中に命を落とした。チャンピオンシップをリードしていたディディエ・ピローニもホッケンハイムで両足を複雑骨折する重傷を負ってしまう。フェラーリはコンストラクターズ選手権を2年連続で勝利するも、ドライバーズタイトルは他のチームに奪われてしまっている。

それ以降のフェラーリは、運命に翻弄されているようだった。1985年、ミケーレ・アルボレートが強さを見せるが、1988年にはチームの父であるエンツォが 90歳で逝去。その後の1990年シーズン、アラン・プロストが5勝するも、議論を呼んだプロストとアイルトン・セナの日本でのアクシデントもあり、タイトルを獲得することはなかった。

シューマッハがフェラーリに加入した1996年当初、あまり歓迎してはいなかったティフォシ。しかし、いずれは彼がチームマネジャー、ジャン・トッドのサポートを受け、チームに刺激を与えるであろうと多くの人が信じていた。シューマッハは低迷を続けていたチームをまとめ、シーズン終わりまでに何とか体制を立て直し始める。その活躍の結果、ティフォシからの支持を得て、シューマッハはチーム全体の顔となり始めたのだ。

1997年、5勝したシューマッハはタイトル争いに加わるが、この年の最終戦でジャック・ビルヌーブと衝突。タイトル争いに敗れてしまった。

1998年、フェラーリは19年振りにドライバーズタイトルの獲得の夢を見る。しかし、シーズン最終戦、シューマッハが駆ったF300はグリット上でエンストし、再びチャンスを逃してしまったのだ。フェラーリのドライバーが最後にチャンピオンになってから20年が経っていた。1998年からマクラーレンの優勢は変わらなかったが、フェラーリのエンジニアたちもマクラーレンに対抗するマシンF399をプロデュースする。

1999年、シューマッハは素晴らしい戦いを続けたが、イギリスGPで事故に遭い、シーズン絶望かと思われた。シューマッハの不在は、単に1人のドイツ人が勝利をもたらさなくなったこと以上にチームへの影響が大きかった。F399は彼のテクニックなしでは苦しく、火が消えたように無気力なピットで貧困なマシンを見つめるだけだったフェラーリ。最大のライバルのマクラーレンに先を行かれ、もはや挑戦の意欲は見られなかった。そんな中、アーバインはミカ・ハッキネンとのタイトル争いを繰り広げる。残り2戦にシューマッハが無理をして戻り、チームメイトをバックアップ。フェラーリはドライバーズタイトルこそ取れなかったが、1999年コンストラクターズタイトルをついに勝ち取ったのだ。チームメイト、エディ・アーバインの活躍により、チームにようやく栄光が戻ってきたのだった。

オーストラリアで開幕した2000年シーズン、他を圧倒する好調なスタートを切ったフェラーリ。シューマッハが最後の2レースを残して、長年の夢だったドライバーズチャンピオンを視野に捕らえる。シューマッハのタイトルが決まった次のレースで、コンストラクターズタイトルも確定。フェラーリは2つの大勝利を手にし、チームの夢は遂に果たされた。

2001年もシューマッハの4度目のタイトルと共に、チャンピオンシップの圧倒的勝利を演出。同時にチームに3年連続のコンストラクターズ・トロフィーももたらされた。2年連続でダブルタイトルを獲得したのは1953年以来のこと。

2002年、F1におけるシューマッハとフェラーリの支配は、もはや誰の目にも明らかだった。シューマッハはシーズン第11戦目にして、早々に5度目のドライバーズタイトルを獲得。チームメイト、バリチェロの助力も大きく、その後すぐに4年連続となるコンストラクターズタイトルも決定させた。17戦中15 戦に勝利するという圧倒的な強さで次々と新記録を更新したのだ。

2003年はFIAがフェラーリ、そして-ューマッハの勢いに歯止めをかけようと、数項目にわたってレギュレーションの変更が行われた。それでもフェラーリはシーズン中に起こった数々の苦難を乗り越え、タイトル争いは最終戦の日本GPまでもつれこんだ。そしてフェラーリとシューマッハは戦いに勝ち、さらなる栄光の記録を更新している。

2004年はフェラーリにとってこれ以上ないほど最高のシーズンとなった。18戦中15勝、表彰台に上ること29回、ポイント獲得は32回で、完走を逃したのはわずか2回。F2004は秀逸なシャシーで、チームの開発が2005年の設計に移ってからも長く勝ち続けた。

シーズンはシューマッハの完ぺきなスタートで始まる。バリチェロから比較的楽な勝利をもぎとったシューマッハは、その後4戦連続で勝利。しかし、モナコでファン-パブロ・モントーヤと接触を起こし、彼の連勝はストップした。このレースの勝者、ルノーのヤルノ・トゥルーリのために言っておくと、フェラーリはモナコで戦術ミスを犯しており、シューマッハのリタイアがなかったとしても勝利は難しかっただろう。

ここから7戦は再びシューマッハの独壇場となり、スパ・フランコルシャンを前に7度目のワールドチャンピオン獲得に王手をかけた。シューマッハはこのレースをきっちりと2位でフィニッシュし、見事チャンピオンに輝いている。

しかし、フェラーリのコンストラクターズチャンピオンシップ6連覇も、シューマッハのドライバーズタイトル5連覇も、2005年でついに途絶えてしまった。ディフェンディングチャンピオンがルノーやマクラーレンにまったく太刀打ちできないという、異例のシーズンを過ごしたフェラーリは最強コンビと謳われてきたブリヂストンと共に苦しい戦いを強いられたのだ。その結果、ブリヂストンユーザーだけが出走したアメリカGPでシューマッハがかろうじて1勝。そのシューマッハはドライバーズチャンピオンシップを3位で終えている。

フェラーリの強さが復活した2006年、シューマッハはイモラとニュルブルクリンクで2連勝を飾る。そして、インディアナポリス、マニクール、ホッケンハイムでも勝利を重ね、チームの王者奪還へと希望をつないだ。

トルコでフェリペ・マッサが自身初ポールポジション、そして初優勝を遂げた後、さらにシューマッハがモンツァと中国で勝利を挙げた。当時、チャンピオンシップトップに君臨していたフェルナンド・アロンソを追い詰めたシューマッハだが、勝負のレースとなった日本GPでシューマッハのエンジンがブロー。リタイアを喫したシューマッハが目指した8度目のタイトル獲得の夢が消えた。マッサは最終戦ブラジルGPで母国優勝を果たし、フェラーリでの初シーズンを終えている。また、シューマッハは同グランプリで予選のトラブルやレース序盤のタイヤのパンクに見舞われながらも、目の覚めるような走りを披露し、最後尾から 4位入賞をもぎ取る活躍を見せた。

そのシューマッハが2006年シーズンをもって引退、フェラーリは新たな時代へと突入する。チームはシューマッハの後任にキミ・ライコネンを起用、マッサとのコンビでシーズンに挑むこととなった。舞台裏では、テクニカルディレクターのロス・ブラウンがその役職を去り、マリオ・アルモンドが後任として役目を担い、スポーティングディレクターにはステファノ・ドメニカリが就任することになったのだ。

さらに、長年パートナーとして共にタッグを組んできたブリヂストンが、F1単独タイヤサプライヤーとなるなど、いくつかの変更があったにもかかわらず、2007年シーズンのフェラーリも力強さを発揮する。

フェラーリでのデビューレースとなった開幕戦で、いきなり優勝を挙げたライコネンはフランス、イギリス、ベルギーと勝利を重ねていった。タイトル争いは最終戦までもつれにもつれたが、最後の2レースとなった中国GPとブラジルGPで2連勝を飾ったライコネンが、それまでチャンピオンシップリーダーだったライバルのルイス・ハミルトンを上回り、自身初のドライバーズ選手権制覇を達成。一方のマッサは3勝を挙げて4位でシーズンを終えている。

F2007は長距離サーキットで見事な競争力を発揮していたが、より短くテクニカルなサーキットではライバルのマクラーレンが強さを見せていた。しかし、フェラーリのナイジェル・ステップニーが関係するスパイ事件によって、マクラーレンのポイントがはく奪され、コンストラクターズ選手権から除外されたこともあり、フェラーリがコンストラクターズタイトルを手中に収めている。

ライコネンと共にチャンピオン奪還を果たしたフェラーリは、主だった変更もなく2008年シーズンに挑んだ。マッサは序盤2戦をノーポイントで過ごしたものの、ライバルのハミルトンがトラブルに苦しんだバーレーンで表彰台の頂点に返り咲き、タイトル争いに加わった。

その後、トルコ、フランス、ドイツ、ベルギーを制したマッサ。ハンガリーGPでは勝利を目前に痛恨のエンジントラブルに見舞われて10ポイントを失ったが、最終戦ブラジルGPで優勝を飾る。しかしながらハミルトンに総得点数で1ポイントおよばず選手権2位に終わった。

ディフェンディングチャンピオンとして挑んだライコネンは序盤4戦で2勝を挙げて以降、勝利に恵まれなかったがランキング3位の結果でフェラーリのコンストラクターズ選手権制覇に貢献している。

2009年シーズンに入る前は誰もがフェラーリが強いだろうと思っていた。が結果はご覧の通り、現在コンストラクターズ4位に甘んじている。いろいろ原因はあるだろうが最も大きい要因はKERSなのは間違いない。しかし、KERSの効果が0と思われるモナコで上位に入るなど底力は他のチームを凌駕する。すでに来期のマシン開発に入るとの情報もあり、レギュレーションに振り回される事がなければ再び強さを発揮するのは間違いない。

イギリスGP
マッサ&ライコネン
左がフェリペ・マッサ、右がキミ・ライコネン
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2009年06月29日

F1チーム紹介・トヨタF1

もはや世界一の自動車メーカーとなったトヨタ。その開発能力を生かして徐々にトップへの階段をのぼりつつある。
イギリスGP1999年1月、トヨタがF1に参戦するというニュースが発表された。そして、それから3年、ついに2002年にF1デビューを迎えたトヨタは、長期目標として"コンストラクターズとドライバーの両方でタイトル獲得"を掲げている。資金、時間、行動力、そして世界をリードする技術力など、企業としての複合的な力が要求されるF1への大いなる挑戦が始まった。



トヨタはエンジンやシャシーなど、すべて自社開発の道を選択。厳しいF1の世界で最高の結果を出すために、F1に莫大な資金を投資する決断も下している。シャシーは1999年からデザインが練られ、同じくV10エンジンもトヨタ独自に開発されたものだ。

2001年3月23日、ついに南フランスのポールリカール・サーキット(トヨタチームのホームサーキット)で初のF1マシンを発表した。発表後は、2人のドライバー(ミカ・サロとアラン・マクニッシュ)により、2001年を通して広範囲にわたるテストプログラム実施。マシン開発のためのテストプログラムに取り組むと同時に、チームの結束を高めていく作業も必要だった。トヨタのテストはホームサーキットだけでなく、世界11ものサーキットを回り、充実したテストプログラムを行っている。

2002年、満を持してトヨタはモータースポーツの頂点F1のグリッドに並ぶ。エンジンを提供する他の企業をライバルに見据え、F1初シーズンに臨んだのだ。世界に知られるトヨタの"カンバン方式"といった成功を基に、F1への挑戦を始めた。トヨタは少しでも速く走るために全力を注いできている。

マクニッシュとサロはチームが成長していく中で、大きな使命を背負っていかなければならなかった。当初はトラブルが多発してしまうなど、初シーズンはコンストラクターズ選手権で2ポイント獲得の総合10位。2002年のシーズンが終わる前に、トヨタはマクニッシュとサロ両ドライバーに代わり、フランス人ドライバーのオリビエ・パニスと2002年のCARTチャンピオン、クリスチアーノ・ダ・マッタを起用することを発表した。

パニスの経験はチームに、そしてダ・マッタに新たな情熱の息吹をもたらす。2003年のトヨタは16ポイントを挙げてコンストラクターズ8位の成績を残した。ドライバーラインナップは2004年も継続し、テクニカルディレクターとしてルノーからマイク・ガスコインが加入。

トヨタにとって2004年は上位チームの仲間入りをするため、ステップの年になるはずだった。2003年12月にルノーから移籍したガスコインの手がけた TF104は満を持して投入されたが、あいにくこれが不発に終わり、16ポイントを獲得した 2003年を下回る9ポイントを獲得するにとどまる。さらに、ドライバー交代や首脳陣の変更などが相次いだことも、十分なパフォーマンスを発揮し切れなかった要因と考えられている。

2005年、長期契約を交わしたラルフ・シューマッハとヤルノ・トゥルーリがチームに加入し、これまでチームを支えてきたベテランドライバーのオリビエ・パニスは現役を引退、サードドライバー兼テストドライバーを引き受けることになった。TF105は開幕から力を発揮し、チームは正しい方向に大きく前進。トゥルーリが開幕5戦で3度の表彰台を獲得し、チームメイトのラルフもシーズン終盤で2度の表彰台を手にした。その結果、2005年のトヨタは合計88ポイントを重ねて、コンストラクターズランキングでチームベストの4位につけている。

シーズン後半で入賞するまで、開幕から8戦で得点のチャンスを逃したトゥルーリにとって、2006年は困惑するシーズンとなった。一方のラルフは全体的により一貫性のある走りを見せ、オーストラリアGPでは表彰台に上っている。日本GP予選では見事なパフォーマンスで3番手と4番手を獲得したものの、レースではピットストップを終えたトゥルーリのペースが上がらず、後ろにいたラルフを抑える形となってしまった。トヨタは前年度よりも順位をひとつ落とし、5 位でチャンピオンシップを終えている。

トゥルーリと新たに3年間の契約を交わす一方、ラルフはチームとの契約最終年を迎えた2007年は、テストドライバーにフランク・モンタニーを起用。

しかし、TF107は競争力を発揮できず、躍進を遂げることは叶わなかった。ラルフはシーズンを通して一貫した走りを見せていたが、トゥルーリは安定性に欠けていたように見える。合計13ポイントで選手権を6位で終えたトヨタだが、そのリソースの高さを武器に目標であるF1勝利に向かってまい進する。

2008年はチームを離脱したラルフの後任として、チャンプカーとGP2で活躍したティモ・グロックを起用。トゥルーリが残留したトヨタは初優勝の目標を2009年シーズンにたくすことになったが、合計56ポイントを獲得して選手権5位と進歩を示した。

日本の大手自動車メーカーであるトヨタのF1におけるそのポジションを考えれば、2009年はチームにとって重要なシーズンであり、今年は現在コンストラクターズ3位につけている。コースによって結果が不安定な部分を詰めていけば昨年を上回る結果は残せるだろう。

イギリスGP
トヨタF1スタッフ
ご覧の通り、「日本のチーム」とは言い難いが、それでも多くの日本人スタッフの活躍によって支えられている。
ヤルノ&グロック
左がティモ・グロック、右がヤルノトゥルーリ
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